勉強するのはどっちだ!?2015年07月26日 16:56

http://blogos.com/article/123751/

「勉強不足です、勉強してください」と題された上記ブログの書き手は自分の言う通り勉強しているのだろうか。例えば以下のように反論されたらどう答えるのだろう。


まず筆者は、「9条だけを見ずに前文から読め」という。しかし引用した前文は典型的な恣意的な抜粋である。
>われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

その前後にはこうある。
まず、前段、
>政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。


とある。ここに9条の存在理由と運用基準があると見るべきである。さらに、ブログ引用文の直前には、
>日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

とあるので、政府の行動は「戦争の惨禍を起こさない」ことに限定され、「諸国民の公正と信義に信頼して(ここには武力が含まれないことに注意せよ)」を基準とする。

さて、ブログでは9条を検討する前に、国内法ではない国連憲章に飛ぶ。
ここは不思議である。憲法を頂点とする国内の法体系について論じる論点と、「国連憲章(国連加盟のための規約)」がずれることは否めない。いや自身の主張のために都合のよい抜粋を行ったというべきだろう。

国際法の優先を言い出せば、ずいぶんとブログ筆者に不利なこともある。たとえば「東京裁判」だ、戦争犯罪人として裁かれたことを、ブログ作者のような考えの持ち主は認めない。
巣鴨プリズンに収監された人々(安倍総理の祖父岸信介は最悪のA級犯罪者だった)を「戦争犯罪を定めた国内法がない」という理由で、サンフランシスコ講和会議によって占領が解かれた後に釈放したのは、現在でも有効な「戦争犯罪にかかる国際法」を無視したことになる。
9条そのものに移ろう。国際法と国内法は峻別しなければならないことは、法治国家にとっては当たり前である。国際法とずれが生じた国内法である憲法を一致させたいなら、憲法を改正するというのが世界の法秩序である。

ブログ筆者は9条を素直に読めば「自衛隊は違憲」である。と認める。
ただし次ぎに続くのは、一見違憲のはずの自衛隊がさまざまな歴史的現実を踏まえて合憲とされるに至る過程と同じく「新安保法制」を合憲とするのは同じ論理でよいという。つまり「国連憲章優位」説である。

しかし現行自衛隊の戦闘行動は、「日本が受けた(受けそうだというのではない)武力攻撃に対する自衛権(個別自衛権)」に限定される。
このことを認めさせた憲法解釈が、9条二項にある「前項の目的を達するため」の文章が第1項のどこを指すのかという文章論理の問題だった。
「国際紛争を解決する手段として」に限定していて「自衛権」は含まないと解釈して「合憲」とされたのである。
このような経過を不勉強か、恣意的な解釈に不利ゆえに排除したかのいずれかである。

素直に読めば(高校生の読解力で)自衛隊が、9条二項で禁じられた「戦力」であることは疑いないが、違憲だから組織解散とできないのは、大量の失業問題や、領海領空の侵犯への対処があるゆえの妥協である。
妥協のもとは上記「前項の目的を達するため」解釈の無理矢理のあてはめに他ならない。

私は陸上自衛隊の、戦車と野砲などの重火器(旧帝国陸軍でも断念した「本土決戦」でしか使わない=事実上使用機会が無い)を廃棄して、対空防衛ミサイル部隊、対テロ特殊部隊のほかのほとんど全てを補給部隊と工兵、災害派遣部隊に振り分け、道路や橋の架設などの災害復旧専用特殊車両と装備に置き換えるべきであると思っている。

「勉強」とは、自己の主張に合致する資料のみをえこひいき的に読むだけではなく、反証も合わせて読み込み、その2つの比較検討を公平に行うことである。
好きな料理の好きな味付けしか認めないということは、「小児的」思考と言わざるを得ない。
大人は「嫌いなもの」はあってもその存在はちゃんと認め、好き嫌いを除く議論ができなければならない。

立憲主義について中学生に説明する2015年06月29日 13:24

玉木雄一郎という民主党の議員のブログ(http://blogos.com/article/119214/)の解説がわかりやすいと評判になっているようだが、中学生に説明するにしては、野党的焦りが先走った政局的解説になっている。
亭主なら、以下のように説明するだろう。

日本は、国民のやってよいこと、いけないこと、もめ事が起きたときの解決の方法を法律によって決めています。学校の校則とかスポーツのルールを思って下さい。
では法律さえあればなんでもOKだとどうでしょう。
たとえば先生が認めたら誰かをいじめてもいい、なんて校則ができたら困りますよね。
こういう誰かが自分に都合のよい法律を作れないように、法律の基準つまり「作ってよい法律とダメな法律」を決めておく必要が出てきます。
とくに「いじめダメ」「えこひいきダメ」みたいに、「ダメ」なところははっきり書いて置くことにしておきます。
そうしないと、弱い立場の人がひどい目に遭ったり強い人がより強く、独り占めなんかをしてしまうかも知れないからです。
一方作ってよい法律は、ゆるくてもかまわないのはわかりますね。


政治は、法律に従ってお金(税金です)を使い、人を集めて(公務員とか官僚ともいいます)監督したりします。また必要な法律を作ったり時代遅れになった古い法律を書き改めたりします。
ここで、法律の基準に絶対に違反しないということが、国民が安心して納得する最低条件となるわけです。
この全ての法律の基準、決して違反してはならない取り決めが「憲法」です。
憲法とそれに違反しない法律に従って政治をするのが「立憲主義」です。憲法が、法律と政治が勝手なことをしないように見はっているという感じです。

歴史を勉強した人は、昔、王様とか皇帝、日本では幕府(将軍)が「余に逆らってはならぬ」と、目を光らせて支配していたことを勉強したでしょう。
とても賢くて立派な王様たちがいるかと思えば、むちゃくちゃだったり残酷だったりする皇帝たちもいて、それは国民にとってはたいへん困ります。
「立憲主義」というのは、憲法を王様、皇帝、将軍とたてまつって、逆らってはならんことにしたといえます。
ただ、人間の王様と違って憲法は、国民が話し合って「どうも今の世の中に合っていないなあ」と思えば、変えてしまってよいのです。
憲法という王様の目を盗んで、こそこそする必要は無く、王様が間違っていると思えば変えることができる、ただしちゃんと手続きして決まったことには逆らえない、立憲主義というのは国民が自分たちの支配者を、自分たちで決めて、憲法という文章(ルールブック)にして誤解が生じないようにしておくということです。

現代宗教は「こころ教」化しているのか!?2015年06月12日 22:28

http://ikeuchisatoshi.com/%E3%80%8C%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E6%95%99%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%91%E3%82%B4%E3%82%B9/
リンク先のブログは、池内恵(さとし)という中東イスラム宗教文化の先生のものである。

ブログで触れられているとおり、日本大乗仏教つまり仏教界のほぼ全て、プロの僧侶(妻帯しているものも多いのであえて出家僧とは言わない)による寺院宗派も、在家中心のいわゆる新興仏教教団も、同様な傾向が支配している。

わたしは「お釈迦様は悟りを開いた後なぜ80歳までの長い人生を全うしたのか」を問い続けている。
仏教の目的が「悟り=劇的な世界認識の転換=真理(正法)の体現」にあるならば、彼は35歳の「成道」で目的は達成され、その後の人生を生きる必要はなかった。
経典には、成道後のお釈迦様に悪魔が「悟った法は微妙で余人に理解できるものではない、目的の不死の法を得たのだからそれを守って疾く涅槃に入る(この場合は静かな死)べきである」とささやいたことになっている。
同時に、梵天が、「いや、この世には誰か同様な悟りを達成して、正法を理解できるものもあろう、あなたが説かないことで悟りの可能性が奪われてしまう、だから人々に悟った正法を説いて下さい」とお願いする(梵天勧請)、という記述がある。現代では悪魔と梵天は、お釈迦様の葛藤を表現する文学形式だとされている。


お釈迦様は、伝道を決意して、以後死に至る80歳まで、聞き手に合わせてケースバイケースで、真理に至る方法論(八正道)、その方法論を支える基本認識(四聖諦、三相)を諄々と説き(対機説法)、弟子たちと寝起き托鉢をともにして、日夜怠ることなく「中道」という悟った人の生活を続けられた。
お釈迦様の人生から、彼の悟った「正法」「解脱」「涅槃」というものが、日々の「正しい=中道」の生活であったことが知れるのである。
激しい欲求(渇愛)や、激情、不安の原因を、無知(無明)に求め、その対極の知恵によって瞬間瞬間にコントロールして中道の生活を続けられた。

正しい生活と真理の認識を伴う悟りとは一体で一方が原因で結果である、どちらかが優先すると言うことがなく二つでひとつ。
仏教は、少なくとのその原初の姿においては、仏教徒であるということは仏教的生活をすることと不可分だった。
ユダヤ教徒もイスラム教徒も仏教徒も、信仰とは、「教え」の通り生活すること以外になかった。
世俗と信仰の分離すなわち「こころ教」への変容は、相対的に世俗的生活=経済活動優位になったことの宗教指導者側の「言い訳」である。
当然反動として「原理主義」があり、密教の言葉を借りた「オーム真理教」もまた同じ枠組みで語られる。
オーム真理教は既存の日本大乗仏教界への痛烈な原理主義的アンチテーゼであり、それに「嫌悪」以外の反応を示さなかった仏教界の「こころ教」度合いは深刻であるということかもしれない。

ポスト大阪「都」構想2015年05月22日 10:30

昨夜のテレ東「カンブリア宮殿」は、文化財の内外装修復の最大手、小西美術工藝社の社長だった。彼は元金融アナリストで、茶道の師範、42歳で日本家屋で「隠居」していたところを請われて就任したイギリス人。
会社は現在、日光東照宮の彩色塗装の修復を行っている。
彼が文化財修復の世界には行って驚くのは、日本が文化財修復にかける予算の少なさである。国家予算としては81億円、故国イギリスでは500億円。
しかも日本では、建築構造物としての修繕が主で、内装などは「古びて赴きあり」の域を超えて単なる「ボロボロ」だという。もちろん観光産業への活用波及はほとんど無いという。
好例は、彩色が剥がれて地元民も見向きもしなかった埼玉県のお寺のお堂を、創建当時の色彩に修復したら、なんと「国宝」してとなり年間80万人を超える観光客を迎え、地元にはガイドなどの波及が生まれた。

彼は断言する、文化財こそ地方創世にもなる観光の核である、観光産業は世界平均でGDPの9%、日本は2%台、つまり観光を「世界平均」とするだけでGDPの伸びしろが確保される。
モヤモヤしていた、砂上の楼閣にすぎなかった「大阪都構想」への対案が明らかになった気がする。
大阪には、豊臣秀吉が開発したころから江戸時代の「商人の町」としての膨大な文化的集積がある。
橋下市長が予算を削りに削った「大阪固有の文化・文化財」「歴史」を徹底的に掘り起こして、観光資源として組み込んで行く。

東京のおもしろさは、実は、華やかで流行の先端を行くものと、江戸に根っこをもつ古い伝統文化との出会いがあるところだと思う。
大阪だけでは難しいところもあろうが、ほんの半径40キロの中に京都・神戸・奈良があるではないか。
京都にあって大阪にないのは、文化的閉鎖性つまり自己の文化へのこだわりと不断の維持管理の差ではないか。
まずは大阪の文化財への徹底立て直し・修復、そしてなにが大阪らしい大阪固有の文化なのかを見直すことだろう。
観光は、固有で個性的な文化を見せることに尽きる。文化財というハードは徹底的に「見て感動するほど素晴らしい」レベル(藤祭りで触れた、塚本こなみさんのいう「感動分岐点」を超える)までメンテナンスされなければならない。

大阪に文化がないか?ある。
京都には京都の、神戸には神戸、奈良にも、吉野にも高野山にも、関西一円には観光産業経済規模を世界平均に近づけるだけの資源はあるではないか。
しっかり補修された、美しく壮麗な「国宝」「重要文化財」を核とする観光産業は、ガイドや、小西美術工藝を頂点とする修復会社、宿泊施設、食堂、外国人の観光ガイド業など裾野が広がる。
GDPを世界平均にあげると、100万人単位の雇用も生まれ、文化財修復の職人技術の継承もスムーズに行われる。
文化財こそ予算のかけがいのある「地方創世」だそうだ。
賛成だ。
ヨーロッパの都市が、最新の超高層ビルで観光客を引きつけているか?「ノー」だ。歴史的景観と文化財・美術品で観光業が成り立っている。
歴史は「江戸時代以前」だけではない、明治~昭和もまた歴史なのだ。
大阪を始め関西復権(観光産業での)は、「関西文化の都構想」こそふさわしい。

憲法を改正しよう2015年05月03日 13:56

憲法記念日だからひと言、私は憲法に関してはリベラル改憲派である。
9条は、解釈の曖昧さをなくし、自衛隊の現状を肯定した次のような条文に改正すべきである。
9条1項 
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる 戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(これは理念なので変えない)
2項
前項の規定にかかわらず、自国防衛のための自衛権に基づく軍事力はこれを保持する。
3項
第2項の自衛権の行使は、日本の領土、領海、領空および国際条約上で認められた排他的水域、国際機関の合意のもとで行う平和維持活動中の地域の中で、他国による日本および国際機関の合意事項を遂行する国に対する戦闘行為があった場合にのみ認められる。
4項
日本国と第3国との間の双務軍事同盟および集団的自衛権はこれを認めない。
5項
国の徴兵権はこれを認めない。


次ぎに問題になるのは24条=婚姻である。大胆に同性婚に道を開いておいた方がよい。
現行; 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
改正案;婚姻は配偶者間の合意により成立し、配偶者が同等の権利を有することを基本として・・・云々。
2 配偶者たる要件は法律でこれを定める。

財産権とりわけ私有財産の不可侵権を規定する29条は、トマ・ピケティによる「資産課税強化」の方向性を明確にして、相続による資産占有層の固定を減じるうえで改正すべきである。
29条 現行;財産権は、これを侵してはならない。
改正案;財産権は相続によって得たものを除きこれを侵してはならない。
第4項(付加);相続で得た財産の内容は法律でこれを定める。

議会制民主主義(間接民主主義)の限界を補完するため直接民主制(国民投票)の地位を定める。
41条 現行;国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
改正案;(41条の1として挿入する)前条にかかわらず、国会の発議による国民投票による結果は、国会での議決にかかわらず国権の最高意思決定とする。
第2項;前項の国民投票に関する要件及び手続きは法律で定める。

衆参両議院議員に関する45条46条の次ぎに付け加え、「1票の格差」問題に対応する。
改正案(46条の1);両議院の議員の権能のうち、議決権については、選挙区の有権者数の格差によって2分の1を下限として制限することができる。
第2項;前項の制限に関する要件と手続きは法律で定める。

最高裁判所の憲法審査権を定めた81条につぎの条文を追加する。
現行;最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。
改正案(81条の1);国民は、国会で審議されまたは議決された法案が、憲法に違反すると認めるときは、最高裁判所に訴えを提起することができる。

地方の議員を選挙で選ぶことについて定める93条第2項を改正する。
現行;地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
改正案(第3項);前項にかかわらず、地方公共団体の議員については選挙に代えて抽選など公平な選出法を採用することができる。

津島天王公園藤祭り2015年04月28日 22:22

名古屋市の北西、西尾張に位置する津島市天王公園で「藤祭り」が開催されて、早咲き遅咲きが共に見頃だというので、行ってきた。
津島は田舎だが、織田信長のころは、川港(だから地名に津がついている)により物資が集積する尾張経済の中心地だった。
名鉄電車神宮前から最短30分で行ける。問題は電車賃の高さだ。片道500円。大阪や東京の電車に乗り慣れた人なら必ず驚くはずだ。梅田から尼崎へ行く、東京から池袋に行くほどの距離・時間だから。
津島駅から天王商店街通りを西へ、突き当たりが津島神社である。途中、小さな社で引いた神籤は「凶」だったので、津島神社の神籤場に結んで転じてもらうことにした。
川港だった昔を偲ばせるように、フナ・モロコ・鰻が売られている。驚くのは婦人服店が津島神社までの15分ほどの道のりに6軒もあり、そのうち4軒が呉服店だということだ。どこにそんな需要があるのか不思議というしかない。
津島神社は落ち着いたひわだ葺きの社殿でなかなか雰囲気がよろしい。財布に残っていた小銭を全部賽銭箱に投入した。凶を転じてもらわねばならぬことでもあるから。
拝殿の傍らで、御嶽噴火災害復興祈願の大太鼓の打ちならしがあったのでドンと一発打って千円を投じた。
5分で藤祭り会場の「天王公園」に着く。公園の大半を池が占めている。この池の上には7月の24日、半球形に多数の提灯装飾(まきわら)を施した船が池に浮かぶ「津島天王祭」がユネスコの世界文化遺産の登録を目指しているという。
藤祭りの客を迎えるためだろうか、公園内に臨時?駐車場があり、車が平然とひとの横を通っている。
土埃が上がる中で、露天商がびっしりでているが、平日の昼間はじいさん婆さんばかりなので商売になならないと感じる。子供連れ家族より圧倒的に金銭をもっている彼らにお金を使ってもらうには相当工夫が要るだろう。
藤棚は公園の南端にある。中央に池から通じる水路を通して幅20メートル長さ200メートル晴れた日でも薄暗いほど藤の房が垂れ下がっている。それはみごとというしかない。花の匂いがムッとする濃密さで漂っている。蜂たちが多く飛ぶがまったく気にはならない。
これだけの花の量なら、ミツバチを飛ばせばけっこうな蜂蜜が取れると思うのだが、藤の花の蜂蜜はなかった。
お土産のお菓子類といえば「あかだ」「くつわ」が通っている。津島神社の鳥居前に3軒が扱っている。正直にいって「あかだ」はカッチカチの醤油味の弾丸で食えた代物ではない。甘い「くつわ」と蓮の実・蓮根の砂糖煮を買う。
市民による街おこし運動も盛んなようだが、こと食べ物に関してはまったく貧弱で、「仕掛け」がまったく足りない。見通しは明るくないとみる。

存立危機武力事態って何だ!?2015年04月19日 13:51

与党安保法制議論で出てきた「存立危機武力事態」というのはわかりにくい、悪熟語の典型のようなものだけど、簡単にたとえると、ヤクザ(暴力団)が、縄張り死守・しのぎの確保、これを犯すやつは生かしちゃおかねえ、と言うこと。もちろんやられる前にたたきつぶす。
さらに、国が「存立危機武力事態」に対処できるなら、国民にも拡大したら、めでたくアメリカのように「危険を感じたらぶっ放して殺しても正当防衛」の銃による自衛社会ができる。外食店もコンビニも武装、いたずらのつもりで爆竹放り込んだらショットガンをあびる。
ストーカーは確実にやられて補償なし(自衛のための正当防衛だから)、メールやLINE、SNSも個人の平穏な日常生活の存立を脅かすとすればぶっ殺して罪にならず。
国家が設定するといかにも正当なように思えるが、個人に引き寄せて考えるとむちゃくちゃなことだということがわかる。

数学書マイブーム4 非線形・カオス2015年04月02日 16:00

非線形科学;蔵本由紀(集英社新書)、複雑系入門;井庭崇・福原義久(NTT出版)、カオスとフラクタル;山口昌哉(ちくま学芸文庫)という数学系教養書をやっと読み切った。共通するのは「非線形」数学である。
山口先生の文庫本は、とにかく数式や数学記号がふんだんに溢れ文化系の私にはまことに手強いものだったが、だんだん数式にも慣れてきて、何のことを語っているのか読めるようになるものだ。
もし読みたいという方は、複雑系入門から初めて、非線形科学、最後にカオスとフラクタルがよいだろう。
おもしろいのは、数学上の「カオス」は、単純な操作を繰り返すことによってもたらされる不規則=ランダムな数値や状態が現れることを言う。ある秩序を繰り返すとき、ある条件になると現れる。その条件範囲以外では、一定周期の振動に収斂する。
天体物理でも万有引力の方程式に厳密にしたがって軌道を描こうとしても、引力を及ぼし合う天体が3つになると、軌道は不規則になりカオスが生まれてしまう(3体問題として現代でも解けない)。
また、カオスの手前に「カオスの縁」という不思議な秩序を保った領域があり、自然界の形に繰り返し現れるパターンや、どこまで縮小しても拡大しても同じ形になる「フラクタル」という次元が注目され始めたりしている。
非線形モデルの守備範囲はさらに広がるだろう。
しかし季節の変わり目の不調から、トマ・ピケティ(の著作21世紀の資本の批判研究論文集)とマルクス経済学の本は積んだまま読む気がしない。


いや、みなさん、数学書というのは文系のアホが読んでも、結構おもしろいし、微分方程式や、写像とかも何とかアイデアぐらいは分かるから、ぜひチャレンジして欲しいものだ。

ジャーマンウイングス機の墜落2015年03月27日 20:40

ジャーマンウイングス機の墜落に関して、ボイスレコーダーの解析から、副操縦士が故意に墜落させた可能性が疑われている。

これは大変深刻な事態だと思う。

人間が操作する乗り物に客として乗るという、きわめて当たり前の信用関係に疑問が投げかけられたからである。
我々はなぜ、どこまで他人が操作する乗り物という機械を信用しているのだろうか。
機械システムの構造や性能を完全に理解して信用しているわけではもちろんない。しかも機械は人間より硬いし重いし速いから、制御不能になって暴走すれば、確実に人間を死に至るまで破壊することは知っている。
では、操作をする人間を理解しているかというと、機械よりはるかに「ブラックボックス」と化しているというべきだろう。誰もその人間の性格が短気なのか慎重なのか判らないし、技量も知るすべがない。
つまり機械と人間という不確定の掛け算で不確定な「乗り物」に乗るのは、ある種最低限の信用が付与されているからに他ならない。
それは、「人間は死にたくない、怪我したくない」という暗黙の共通理解に基づく信用である。普段はあまりにも当たり前すぎて意識にものぼらないし、それが無くては人間が社会生活することすら不可能になるとも言える、道路などのハードなインフラ以上の社会の最深部のインフラであろう。
「死にたくない」
これが乗客と操作者に共通していると思っているから、「いざとなったら助かる方向に操作する」と信用することができている。
今回の「副操縦士が故意に墜落させた」というのは、この信用を根底から覆している。

「死にたくない」という共通基盤が存在しない人間は、どれほど恐ろしいか。それは太平洋戦争で「特攻」がアメリカ兵を震え上がらせ、911でアメリカ大統領を逆上させ、中東での自爆テロになすすべがないのでも分かる。
もっとも恐ろしいところは、副操縦士が「普通の」人間であって事前には何の兆候も見いだせなかったということである。
こうなると、彼は「1人」であると同時に「全ての人間」である可能性を示してしまった。テロリズム思想に染まっているわけでも、精神や人格の偏りでもなく、まったく他の人間と区別することができない「人間」全ての代表となったのである。

「死にたくない」が消えていくということは、戦争やテロを敢行する性向と同じかそれ以上の、人間性の根幹であるの社会性を否定し、人類のアポトーシスが始まったと言ってよいほどの脅威であると思うのだ。

ISと昔の一向一揆は似ている2015年02月17日 19:47

ISが樹立したと称する「国家」がどんなものか、何を目指しているのか、その脅威が分からないという人は、他ならぬ日本の過去にその「そっくりさん」がいるので参考になるかも知れない。

戦国時代名だたる武将はもちろん、その中のナンバーワンとなった織田信長も苦しめた「一向一揆」衆による国人支配である。
一向一揆は、地理的にはまったく離れたところで同じように発生し、大名などの武家の支配を拒否した。団結力はまことに強固であり、十分な通信手段もない中で、連携を保った。
信長に攻められたときには、石山本願寺に「顕如」という指導者がいたが、彼は戦闘や統治を指導したわけではなかった。
たぶん顕如を暗殺していたとしても一向一揆組織そのものをつぶすことはできなかっただろう。
一向宗といえども仏教だから、殺生禁止は一神教徒より強いタブーだし、殉教などという概念は全くなかったが、代わりに厭うべきこの世を信仰(南無阿弥陀仏)に生きて、名号を唱えながら死ねば極楽浄土へ生まれ変わると信じて命を惜しまなかった、ゆえに信長も手こずったのである。
かれらは加賀国や山城国という当時の一国を支配し、独裁によらず合議(集団)によって巧みに統治した。一向一揆衆が最終的に「天下」を狙っていたとは思えないが、一向宗門徒が多い地域では、その価値観にあった統治をあくまで求めただろう。


彼らの強みは、多くが生産資本手段を持つ「農民」であり指導者には豪農(庄屋)もいた。武家の側から見ると自分たちの経済基盤を根こそぎにされると言う思いだったろう。IS勢力がこのまま石油施設を掌握してしまうと同じことになる。
一向一揆衆が国を支配すると武士唯一の収入減である「年貢」はままならない。
支配をそのままにして政治権力を大名にまかせることはあっても、経済の首根っこをきゅっと押さえて、大名を「傀儡」とするのが彼らにとっては一番の統治形態ではなかったかと想像する。

どのように収まったかと言えば、ISが存在基盤をおくイスラム世界にはなく、幸い当時の日本にあった「天皇という権威」を信長が利用し、筆舌に尽きない残虐な戦闘で疲弊させた末に彼らを騙したゆえであった。
残念ながら、一向一揆衆と違って、ISには「権威」がおらず(バクダディ師からして傀儡っぽい)、石山本願寺や伊勢長嶋のような包囲線をしくこともできず、ISの残虐行為を非難する以上、彼らの「皆殺し」は難しいという点にある。
一箇所に集めて叩く戦法より、分散させて各個殲滅していく方がよいかも知れない。