愛知トリエンナーレ「表現の不自由展」2019年08月04日 20:44

名古屋市長が軽々しく「日本国民」といっている。
彼の含意するところは「例外なくすべての日本人」であろうが、それは論理的にも事実にも合わない。
「すべての」反証として、日本人の私は、なぜ、暴力的でもなく性的な要素も一切ない、チマチョゴリを着た感情のない慎ましい少女の造形表現が、「従軍慰安婦を象徴する・それに抗議をする」という政治的象徴表現とされたのかを、ぜひ知りたい・感じたいと思うからだ。
造形表現というのはそういうものだと思う日本人は、愛知県知事・津田大介氏を含め少なくはあるまい。
ならば市長の言い分は「一部の日本人は」と言い替えるのが正しい。
そのような「部分的日本人が傷つく」事柄は日常茶飯事である。例えば、相撲・高校野球中継のおかげでラジオのレギュラー番組がなくなって傷つく日本人がいるというのと「等価」である。したがって、これらの中継をやめるべきだと言う、まことにおかしなことになってしまう。
自身の政治信条や、集票目的のために、「一部の人々が」いやだと感じる事柄を排除を平然と強いることは、ひにくにも「少女像」が象徴する政治プロパガンダと同じ理屈だと言える。
国と国との関係に緊張が高まっているとき、市民レベルにその緊張が及ばないように努力するのが自治体の首長ではないのだろうか。
テロ予告をする一部のうちのごく一部の「犯罪的日本人(京都アニメーション放火殺人容疑者と同じ)」の肩を持ったことになるまことに罪深い市長の行為だったと言えよう。

本当に傷ついたのか?2019年08月09日 11:10

ふと思う、従軍慰安婦問題の象徴とされた少女像や徴用工問題を仮託されたやせた労働者の像をみて、あるいはその存在を感じて、本当に傷つく人はいるのだろうか。いたとして心のどこがどのように傷つくのだろう。
理屈から言えば、現代の日本人が個人の心として傷つく要素はないのではなかろうか。
昔の悪事をネチネチ見せつけられて、ムカつくと言うことならわかる。これは非常に攻撃的な心理でって「傷つく」というようなメランコリックなものの対極にあると言ってよい。
国家としての日本の尊厳みたいなものが傷つけられたので、国家を愛し国家と一体に自我を重ねる自分としては、傷つくべきである、ということはある。
でも、19世紀~20世紀前半の世界情勢では当然であったにせよ、植民地支配をし、かなり被征服民として差別感情を持ち現代にいたってもその感情を根強く残す扱いをした過去は、そんなに自慢できることではなく、現在ではむしろ「懺悔」すべきものではないのか。
しかも当時の政体は解体され、日本は独立を奪われ(≒滅んだ)、死ぬ必要はなかった非戦闘員もメガ人単位で死んだ。そこまで追い込んだ「広大な植民地をもつ偉大な帝国」が最終的に日本国民にもたらした成果は「悲惨」の一語に尽きる。この歴史的事実は誇るべきことではなく、恥ずべき失敗でしかない。
だから、個人的感情としても、国家と自我の合一にまで拡大した自我においても「傷つく」心理的要素はない(恥じ入る要素ならある)といえる。
たぶん「傷ついた」という人々は、国(時の為政者)が「傷ついた」と言えば自分も「傷つかねばならない」という条件反射レベルまで強化された学習・習慣によるのだと想像する。
多分に「国のため、組織(会社など)のため、家族のため」が優先し、そのためになされた個人レベルの「悪」も「必要悪」「逆らえなかった」と強弁して(最近でも謝罪会見で見ることができる)自分も他人も納得させようとする人々で、傷つくという心理や自分が悪いと言ったことがらは理解できない気がする。