安田純平さんと戦場ジャーナリズム2018年11月06日 10:52

ジャーナリスト個人の評価と、紛争地ジャーナリズムの問題は別個に考えた方がいいと思います。
個人の問題としては、安田さんは「下手をうった」につきるでしょう。彼は失敗したのです。それは彼個人の自己責任であることは明らかです。
しかし日本における紛争地ジャーナリズムという点では問題は残ります。
まず、危険な紛争地での報道が必要であると言うことは、誰しも納得できるでしょう。現地の政府反政府どちらの当事者の情報も単なるプロパガンダの可能性があるので信頼できません。
第三国である日本国政府の情報もおなじです。
ジャーナリズムが、権力の監視を担う民主主義の第四権力として不可欠である、という価値観に立てば、ジャーナリストの安全を確保する仕組みを持ち現地情報を自らもたらす意味は当然に肯定されます。
安全が担保されない危険な紛争地へ日本人が行くことはなく、CNNはじめ、潤沢な資金のもと護衛された報道会社の記事・映像を購入すればよいというのも安易にすぎましょう。
報道・取材とはいえ、各国独自のバイアスがかかります。それゆえ日本人の視点から取材報道することは、日本の民主主義を考えると今後も決して外すことはできないと思います。
外国の報道を垂れ流してよしとするというのは、日本国内の政治報道も海外メディアに任せてしまうことと本質的にはおなじです。
安田氏の個人問題に矮小化して議論し続けてもたいした意味は無いと申し上げておきましょう。

コメント

_ み枡屋亭主 ― 2018年11月08日 11:11

なぜ危険な紛争地に行くのか?という問いには、ジャーナリストの「本当はどうなっているのだろう」という疑問に基づく好奇心だといえるだろう。
それに対し、個人の好奇心でいって役に立つかわからないし危険な上に失敗したら国民の税金などがフイになるからやめろ、というのがバッシングの大きな部分だ。
これ、どこかでおなじことを聞いたことがある、科学の基礎研究や、いわゆる文化系の研究だ。
役に立たない、失敗したら税金の無駄遣いだ、この論調がどれほど日本の学術・基礎科学研究に危機をもたらしているかは、今年の本庶博士にとどまらず歴代のノーベル賞受賞者が必ず言及している。
思えば、学術研究の中のフィールドワークという研究手法と、ジャーナリズムは方法論としては全くおなじだ。
さらに広くいえば、人間の知的な自由を社会がどう担保するかに行き着く。
安田さんや今後も続くであろう紛争地・危険地帯ジャーナリストの活動の自由と学問の自由とは「等価」であると思わねば、あらゆる自由が狭められるであろう。
もし国民が税金を投入してでもまもるべき自由があると思うなら、安全確保と失敗の場合の寛容さを支援しないといけない。

_ 亭主 ― 2019年02月18日 20:32

取材に行くジャーナリストを「出国禁止」にするのではなく、どのような安全対策を講じているのか、危険な目にあった時の緊急連絡ルートは何かなどを具体的に聞いて、送り出せばいいと思う。

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