違憲立法審査はどうあるべきか2016年06月12日 22:01

昨年成立した「安保法制」を境に、憲法には最高裁判所の権能として書かれている「違憲立法審査権」が機能していないことが改めて議論されている。
目下、最高裁判所の憲法判断は、何らかの具体的な行為による訴訟(「安保法制の成立によって、平和な生存権が侵されて精神的苦痛を受けた」とか)の付属的な問題として扱われ、憲法違反だから無効だと申し立てることはできない。
国が締結した条約、たとえば日米安保条約そのものは「外交政策など高度な統治行為には司法判断はしない」と門前払いに近い扱いを受ける。条約に対応する国内法についても同様である。
それゆえ最高裁の「違憲立法審査権」は、絵に描いた餅じゃないか、と言われて久しい。
そこで、憲法を改正するなら、違憲立法審査権を強化する方策が議論されている。
ひとつ、有力な案は、諸外国にも既にある「憲法裁判所」という憲法違反かどうかを専門に扱う司法組織を新設するというものだ。
日本では「読売新聞憲法改正試案」にその記載がある。
もう一つは、有力ではないが、私の「改正私案」も採用する、違憲立法審査の手続き(何を誰かいつ訴え、最高裁判所はどのように判決に至るのか、その効果はどうか)を定めようとするものである。

憲法裁判所のメリットは、強力でシンプルなことである。
国会で議決成立したすべての法律や内閣の政令などをすべて憲法裁判所のチェックを受けるようにすれば、理論上「憲法違反」は起きなくなる。
問題は、まず、三権分立のバランスが崩れることだ。憲法裁判所の権能は、国会で成立した法律の「拒否権」とも解釈できる。国会も内閣も自治体も、決してここを無視できないから、絶対権力である。
したがって裁判官の任命権をどうするのかによって、事情は大きく異なることになる。議院内閣制をとる日本では、国会と内閣は一体だから、そのいずれにも形式的な任命権(最高裁判所の推薦を拒否できず機械的に任命する)以外のものと与えるのはきわめて危険である。最高裁判所の推薦に拠ることとしても、最高裁判事の任命権を内閣が握っているので、政権与党の思惑が入り込む余地は残る。
最高裁判所と憲法裁判所の上下関係もかなり難しい。別々の「長官」を定め「衆・参両院議長」のように並立してのがよいかもしれないが、予算などの優先権がある衆議院議長程度の「格上」感が憲法裁判所長官に生まれるだろう。最高裁といえども憲法問題は憲法裁判所に伺いを立てることになるからだ。
新しい組織、しかも憲法に基盤を持つものを作るとなると、事務方をはじめ、最高裁以下現行の裁判所との関係など組織整備法制が必要となる。憲法裁判所の「訴えの手続き」とか「審理の方法」の在り方も決めなければならないだろう。現行76条第2項の「特別裁判所の設置禁止」との整合性も検討することになる。
とにかく手間とコストがかかる。

一方「私案」のように違憲立法審査の手続き(誰がどうやって何を訴えるのか)を定める場合には、最高裁判所による「統治行為論」を乗り越えることができるのか、また自身が行った「判例」に縛られてしまうのではないかという懸念がある。
訴えるのが誰かという問題もある。読売新聞私案と私の「私案」では衆参両院議員の3分の1以上の賛成で、国会議員が起こせるとしている(読売は憲法裁判所への提訴だが)。両者とも、多数派である与党が起こすことは考えられないという前提に立っている。
国会での審議を通じて問題点をよく知る国会が行うとするのは一定の合理性がある。
一般国民に拡大すると、「個人で」では乱用の恐れが大きい、地方自治法にある直接請求権を拡大するやり方は、署名の有効を審査する事務(地方自治体の選挙管理委員会が実務を行う)は、全国にわたるので非常に煩雑で予算がかかる。
したがって、訴えの提起は国会にゆだねるのが妥当と言える。しかし政治的駆け引きを排除することは難しい。しかも最高裁判所の任命権、指名権は内閣にあるので、最高裁判所の独立性についても政治的要素が排除できない危険をはらんでいる。違憲立法審査の手続きが憲法に定められているからと言っても、現実には、国会の多数を占める与党と内閣の政治的影響を受けてしまう。
一方メリットは、組織を含め現状を変えないので、コストがほとんどかからない。最高裁判所の現行判事数を増やすかどうかを検討する程度で済むだろう。「仙人判事」は結局憲法裁判所と同じ権能を最高裁判所の中に作ることとなるので、避けた方がよい。

憲法裁判所の設置か、違憲立法訴訟手続きかは、両者とも固有の問題を抱えてはいるが、現状を大きく変更しないという点では、後者を推すものである。

現行憲法では「日本を守れない」のか?2016年05月07日 21:59

右翼改憲論者の常套句は「現行憲法(特に9条)では日本を守れない」である。

では何から日本を守ることができないのか。
第一は「外国の軍による侵略」
しかし、これは現行憲法でも自衛隊による「個別的自衛権の行使」「防衛出動」で解決できる。
第二は、はっきり右翼たちは言わないけれど、内乱(「左翼」反政府暴力革命)だ。
しかしこれも自衛隊の任務のうち「治安出動」であ足る。
それに「内乱」規模の反政府運動が起きるのは、政府の失政以外にはあり得ず、たいていは反政府側に五分以上の「理」がある。

このように言われると彼らは「日米同盟関係」からの「集団的自衛権」に言及する。
不思議な感覚である。現行憲法はアメリカの押しつけだから気に入らないのに、軍事同盟と駐留米軍は許すのだ。
アメリカは、中国や北朝鮮など児戯に等しいほど、好戦的で世界中に「反米勢力」を抱える国家である。まあ、日本の暴力団で言えば「山口組(分裂前)」と思えばよい。
当時世界をほぼ征服していた「蒙古帝国」ですらできなかった日本の壊滅と占領を、たった四年ほどの戦で達成した絶大な暴力をもった独善的な国だというのに、である。

第一と第二は、そもそも現行憲法の解釈で生まれた「自衛隊」の存在理由そのものだろう。
自衛隊は、外国からは立派な「軍」と思われ、PKO派遣部隊が現地で敵対勢力につかまったら国際法上の「捕虜」の扱いを受けるという、見た目も扱いもバリバリの「軍隊」である。ただ「軍」という名称がないだけだ。
右翼改憲論者は、たぶん大好きであろう「自衛隊」を否定するのだろうか。

第三は「大規模国内テロ」である。
しかし、テロリストが外国人であっても、テロに対処するのは警察であることはアメリカやヨーロッパ「先進国」では当然のこととされる。
911同時多発テロで、アメリカはアフガニスタンにアメリカ軍を投入したが、国内のテロリストに対してはFBIという警察権力が当たっていて、テロリストの逮捕には令状がいるし、司法によって裁かれる。
テロの実行犯(テロリスト)は、まず間違いなく日本人であろう(来日外国人が多くなってもやはり目立つ)、彼らを裁判もなしに殺戮してよいということはあり得ない。

第四は「災害」だそうである。
これは、大地震・大津波、台風、豪雨・洪水、大雪、土砂災害、火山まで、災害の総合商社である日本で、現行憲法が妨げになったことはないことをご存じないと思われる。
内閣が一元的に指揮する(緊急事態条項みたいに)という、現場から離れた遠隔操作が「弊害」以外の何ももたらさなかったのも周知の事実だ。

そもそも「災害」を起こさないようには(台風を逸らしたり火山を活動停止したり)できない。
おきてしまった災害被害を最少にすることと救助救援、復旧復興しかない。
その体制は、国家(政府内閣)が余計な口や手出しをせず、被災現場に金と人員を要求どおりに送り込むことであることは、先述の「周知の事実」として定着している。

最後に、たぶん右翼改憲論者が、一番守りたいのは「国益」。と言っても全国民的利益ではなく、特定の産業資本の海外権益である。

この「権益」がいかに暴力に訴えてでも守りたいものであるかは、アメリカを見ればわかる。
アメリカ軍な守られて(幾分かの威嚇を含む)、あるいは中国人民軍に守られて海外権益をむさぼり食う、その様がいかにもうらやましく、軍隊に守られていない自分たちの投資する日本人が丸裸のようで心細いという不安に突き動かされたがゆえの「守って欲しい」なのだ。

権益・国益というと大層に聞こえるが、要するにヤクザ(=暴力団)の「縄張りとしのぎ」と同じ意味である。ヤクザはこいつを命がけで守りたいがゆえに暴力を厭わない。
世界の中で最大勢力の「暴力団」であるアメリカもまた独自の「国益」を抱えている。それを守るためにはいとも簡単に暴力をふるうアメリカが、日本の国益と対立したとき「義兄弟のちぎり(日米同盟)」か、自分の縄張り(国益)を優先するかは、簡単に結論が出る。

つまり、右翼改憲論者の言ういずれからも日本を「すでに守っている」か「守れない」かのいずれかということになる。

憲法改正私案2016年02月25日 17:28

前文は全面削除。
第一章「天皇」第一条~第八条は変更なし。
第二章「戦争の放棄」は章名を「戦争の放棄と自衛権」に変更
第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の規定にかかわらず、自国防衛のための自衛権に基づく軍事力はこれを保持する。
 3 日本国と第3国との間の双務軍事同盟および集団的自衛権はこれを認めない。
 4 国の徴兵権はこれを認めない。
 
第九条の二 前条第2項の自衛権は陸上、海上、航空自衛軍により行使される。
第九条の三 自衛権の行使は日本の領土、領海、領空および国際条約上で認められた排他的水域で他国による攻撃があった場合に認められる。
 2 自衛権による武力行使は、自衛のための最小限とし、他国の領土領海領空では行わない。
第九条の四 前条のほか、国際連合と当事国政府の合意のもとで、他国と共同で平和維持活動に自衛軍を派遣することができる。
 2 派遣中の自衛軍に対する攻撃があった場合の武力行使は、第九条の三にかかわらず、自衛権の行使とする。
第九条の五 平和維持活動中は、捕虜の扱いに関する国際条約における軍の規定を適用する。
 2 平和維持活動中の自衛権の行使による他国民の殺傷について派遣自衛軍において軍事裁判を行うことができる。
 3 軍事裁判の刑罰及び手続きは法律で定める。ただし刑罰に死刑を設けることができない。
 4 軍事裁判の判決に不服のあるものは帰国後通常の裁判を起こすことを妨げない。
 
第3章「国民の権利と義務」
第十一条  国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
 2.基本的人権の具体的な権利は制限的に解してはならない。
 
第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
 2.日本に滞在または居住する外国人についても、外国籍であるゆえをもって前項の権利について差別されない。
 
第十五条  公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利であり、その手続きは法律で定める。
○2  すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。
○3  公務員の選挙については、普通選挙を保障する。(「成年者による」を削除)
○4  すべて選挙における投票の秘密は、これを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問はれない。
 
第二十一条の一 (知る権利を明文で追加)
国民は、国及び地方公共団体の保管する情報の公開請求ができる。
 2.前項にかかわらず法律により公開を制限することができる。ただし制限期間は30年を超えることができない。
 3.前項の制限ができる情報は、最小限でなければならず、相当の理由を明示しなければならない。
 
第二一条の二
個人に固有の情報は厳重な保護を要する。
 2.国または地方公共団体は保有する個人固有の情報によって、個人の権利を侵害してはならない。
 
第二十一条の三 第二十一条にかかわらず、あらゆる差別に関してそれを煽り、政治目的とする結社、表現はしてはならない。
第二十一条の四 国及び地方公共団体およびそれらが関与する団体においてあらゆる差別はこれを禁ずる。
 2.差別の排除撤廃に関し、国が締結した国際条約に反する法律規則はこれを無効とする。
 3.前項に抵触する法律規則は速やかに変更しなければならない。


第二十四条 婚姻に関する条文だが削除

第三十七条  すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
○2  刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。
○3  刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。

第2項、「全ての証人」を「全ての証人及び証拠品、取り調べ記録」とする。

第四章「国会」
第四十八条  何人も、同時に両議院の議員たることはできない。
 2 地方公共団体の長及び議会の議員、その他法律で定めた公務員も両院議員を兼ねることができない。
 3 2以上の国籍を持つもので、外国の公務員であるものは、両院議員と兼ねることができない。

以下の2つの条文は削除。

第五十一条  両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。

第五十五条  両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。但し、議員の議席を失はせるには、出席議員の三分の二以上の多数による議決を必要とする。
 
第五章「内閣」
第七十条  内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があつたときは、内閣は、総辞職をしなければならない。

次の条文を追加する。

第七十条の一
内閣総理大臣が、心身の故障により意思の伝達が不能となったと認められる場合は、内閣は、法律の定めに基づいて、職務代理者が職務を執行する。
 2.前項の場合において、職務代理者は、30日以内に内閣総辞職するか衆議院を解散しなければならない。
 3.内閣総理大臣が意思の伝達が可能となった場合は、職務代理者は直ちに職務を内閣総理大臣に引き継がねばならない。

自衛権を認めた以上、自衛軍に対する内閣の責任と国会の関与を明確化しなければならないのは当然なので、条文を追加する。

第七十三条の一
内閣は自衛権の発動と終結を決定する。ただし発動及び終結後速やかに国会の承認を得なければならない。
  
第七十三条の二
内閣は自衛軍すべての行動に責任を負い、行動について速やかに国会に報告しなければならない。

第六章「司法」
第八十一条  最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

とはいえ、違憲立法審査権は機能していないので条文を追加する。

第八十一条の一(違憲立法訴訟)
国会で成立した法律が憲法に違反すると両院のそれぞれ3分の1以上議員が認めるときは、法律の公布後30日以内に、最高裁判所に当該法律が憲法に違反し無効である旨の訴訟を起こすことができる。
2.最高裁判所は、訴えが起こされたときから60日以内に違憲か合憲かの判決を下すものとする。
3.前項の判決により違憲と判断された法律または条文は、無効となり、改正の場合は従前の条文が有効となる。
4.違憲立法訴訟は、法施行後の憲法に違反する旨をもっての一般訴訟を妨げない。

第八十二条 裁判の対審及び判決は、法律で定めた少年の裁判を除き公開法廷でこれを行う。

第七章「財政」
変更なし。

第八章「地方自治」
第九十四条の一(住民投票の制度化)
地方公共団体は、行政の執行や財産の管理その他に関することを、住民による直接投票によって決定することができる。
 2.住民投票に関することは法律及び地方公共団体の条例で定める。
 
第九章「改正」
第九十六条 この憲法の改正は、衆議院の総議員の三分の二以上、参議院の総議員の二分の一以上の賛成で、国会がこれを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
○2  憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

第十章 最高法規
第九十七条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

外国人差別を防ぐ必要から第2項を追加する。

 2.基本的人権の保障は、日本国民でないゆえをもって制限的に解してはならない。

自衛隊は憲法解釈という砂上の楼閣にいる2016年02月25日 17:22

陸海空自衛隊20万人の軍事的能力は世界の中でも上位だそうである。
しかし、憲法第九条によって「陸海空の戦力はこれを保持しない」となっているので、国内的には日本国政府は「防衛力」をもっていて戦力は持っていない、「防衛装備」をもっているのであって武器・兵器は持っていないと言い換える。
このような不自然は「言い換え」の源泉は、自衛隊が憲法第九条とどんな関係にあるのかという「どろどろした」経過にある。
日本国憲法第九条は2つの項からなるシンプルな条文である。

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
 
 一つの条文だが、章として独立していて「第二章 戦争の放棄」と題されているから、戦争に対する強い禁忌があるとみるべきだろう。
この第二章・第九条は、「前文」にある「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」を受けて設けられたと考えるのが文章の解釈としてはごく自然であろうと思われる。
少なくとも高校生~大学入試の国語レベルでは、正しいとされる。
つまり、自衛隊の存在は憲法第九条とは相容れない矛盾であるとする「自衛隊違憲論」は強い説得力を持つ。

政府も自衛隊創設以前1946(昭和21)年の吉田首相などは次のような見解を表明している。
「戦争放棄二関スル本案ノ規定ハ、直接ニハ自衛権ヲ否定ハシテ居リマセヌガ、第9条第2項二於テ一切ノ軍備ト国ノ交戦権ヲ認メナイ結果、自衛権ノ発動トソテノ戦争モ、又交戦権モ放棄シタモノデアリマス。
従来近年ノ戦争ハ多ク自衛権ノ名二於テ戦ハレタノデアリマス。
…故ニ我ガ国於テハ如何ナル名儀ヲ以テシテモ交戦権ハ先ヅ第一自ラ進ンデ放棄スル。
…世界ノ平和確立ニ貢献スル決意ヲ先ヅ比ノ憲法二於テ表明シタイト思フノデアリマス。
(引用元;http://tamutamu2011.kuronowish.com/kyuujyouhanketuitirann.htm )

ところが、自衛隊が発足し、防衛庁が設置される過程で政府は憲法の解釈を変更するに至る。

1979(昭和54)年(大村防衛庁長官)

政府の見解をあらためて申し述べます。
第1に、憲法は自衛権を否定していない。自衛権は国が独立国である以上、その国が当然に保有する権利である。……
第2.憲法は戦争を放棄したか、自衛のための抗争は放棄していない。
1.戦争と武力の威嚇、武力の行使が放棄されるのは、「国際紛争を解決する手段としては」ということである。
2.他国から武力攻撃があった場合に、武力攻撃そのものを阻止することは、自己防衛そのものであって、国際紛争を解決することとは本質が違う。従って自国に対して武力攻撃が加えられた場台に、国土を防衛する手段として武力を行使することは、憲法に違反しない。
(引用元は上記と同じ)

ここで、法文解釈のマジックとも言うべき方法がとられている。
条文を、句読点で区切られるセンテンスで個別に解釈するのである。すなわち第1項を「国権の発動たる戦争と」「武力による威嚇又は武力の行使は」「国際紛争を解決する手段としては」に分解する。
第2項も「前項の目的を達するため」「陸海空軍の戦力はこれを保持しない」「国の交戦権はこれを認めない」と分解する。
次ぎに、分解されたそれぞれのセンテンスを個別に解釈する。すると、条文全体で意味していることを離れて自由度が増す。
第一項は次のようになる。
「国権の発動たる戦争」=宣戦布告を行った国際法上の国家同士の戦争と解釈する。
「武力による威嚇又は武力の行使」=宣戦布告なき武力衝突又は戦闘行為。
「国際紛争を解決する手段」=外交や国際政治上のお互いに相容れない主張を解消できない場合の手段。つまり武力で相手国を攻撃又は威嚇することで当該紛争を解決する、ほぼ侵略戦争と同じ意味。
続いて第二項、
「前項の目的を達するため」=宣戦布告を伴う国家間の戦争や、外交・政治問題を解決する手段としての戦争をしないという目的。この文章が次のセンテンスに係るとする。元総理大臣であった芦田均が退任後かなり後に言いだした解釈と同じであるので「芦田修正」と呼ばれることもある。
「陸海空軍の戦力はこれを保持しない」=上記目的、国家間の戦争や交渉で解決できない問題に対する手段としての戦力は保持しない。
「国の交戦権はこれを認めない」=交戦権は国際法上明確でないとする記述がWikiにある。その記述に拠れば「交戦状態にある国=戦時国際法が適用される状態にある場合の権利」というのが国際法上の意味合いであって、「国が戦争をする権利」という憲法前文や九条全体から受ける意味合い定義はないという。

以上ようなセンテンスごとの解釈をつなげると、政治外交などの手段で解決できない他国とのお互い相容れない紛争をその国に武力を行使したり威嚇したりするための戦力保持やその延長にある戦争はしない、となる。

この解釈の中に、他国から理不尽に日本が武力攻撃を受けたとき、つまり喧嘩を売られたとき、応戦する正当防衛の権利=自衛権は禁止されておらず、「その目的(国際紛争を解決するという目的ではない)」のために、陸海空の戦力を持つこと、つまり自衛隊とその運用としての自国防衛戦闘(自衛権)は禁止されてはない。
世界屈指の装備と戦闘能力を持つ自衛隊が堂々と、「戦争放棄」という憲法の下で存在できる理由づけはこのように為される。

現在の政府見解(防衛省のサイトより;http://www.mod.go.jp/j/approach/agenda/seisaku/kihon02.html )
>>防衛省見解。

わが国は、第二次世界大戦後、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう決意し、平和国家の建設を目指して努力を重ねてきました。恒久の平和は、日本国民の念願です。この平和主義の理想を掲げる日本国憲法は、第9条に戦争放棄、戦力不保持、交戦権の否認に関する規定を置いています。もとより、わが国が独立国である以上、この規定は、主権国家としての固有の自衛権を否定するものではありません。政府は、このようにわが国の自衛権が否定されない以上、その行使を裏づける自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法上認められると解しています。このような考えに立ち、わが国は、憲法のもと、専守防衛をわが国の防衛の基本的な方針として実力組織としての自衛隊を保持し、その整備を推進し、運用を図ってきています。

(1)保持できる自衛力
 わが国が憲法上保持できる自衛力は、自衛のための必要最小限度のものでなければならないと考えています。その具体的な限度は、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面があり、毎年度の予算などの審議を通じて国民の代表者である国会において判断されます。憲法第9条第2項で保持が禁止されている「戦力」にあたるか否かは、わが国が保持する全体の実力についての問題であって、自衛隊の個々の兵器の保有の可否は、それを保有することで、わが国の保持する実力の全体がこの限度を超えることとなるか否かにより決められます。
 しかし、個々の兵器のうちでも、性能上専ら相手国国土の壊滅的な破壊のためにのみ用いられる、いわゆる攻撃的兵器を保有することは、直ちに自衛のための必要最小限度の範囲を超えることとなるため、いかなる場合にも許されません。たとえば、大陸間弾道ミサイル(ICBM:Intercontinental Ballistic Missile)、長距離戦略爆撃機、攻撃型空母の保有は許されないと考えています。<<

しかし、中高校生レベルで理解される日本語が「専門家」によって正解とされないというのは、自衛隊の存在が「戦争放棄」をうたう日本国憲法に合致すると国民的に合意されるものではなく、時の政権・政治による恣意が働いてしまうと考えられる。
政権が変われば、自衛隊が「憲法違反」とされることもあり、陸海空20万人の自衛官の地位や雇用、装備の存廃も含め、不安定な存在であることになる。

それゆえ憲法改正「私案」では、次のように改正することを提案している。
第二章「戦争の放棄」は章名を「戦争の放棄と自衛権」に変更
第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
 2 前項の規定にかかわらず、自国防衛のための自衛権に基づく軍事力はこれを保持する。
 3 日本国と第3国との間の双務軍事同盟および集団的自衛権はこれを認めない。
 4 国の徴兵権はこれを認めない。
 
第九条の二 前条第2項の自衛権は陸上、海上、航空自衛軍により行使される。
第九条の三 自衛権の行使は日本の領土、領海、領空および国際条約上で認められた排他的水域で他国による攻撃があった場合に認められる。
 2 自衛権による武力行使は、自衛のための最小限とし、他国の領土領海領空では行わない。
第九条の四 前条のほか、国際連合と当事国政府の合意のもとで、他国と共同で平和維持活動に自衛軍を派遣することができる。
 2 派遣中の自衛軍に対する攻撃があった場合の武力行使は、第九条の三にかかわらず、自衛権の行使とする。
第九条の五 平和維持活動中は、捕虜の扱いに関する国際条約における軍の規定を適用する。
 2 平和維持活動中の自衛権の行使による他国民の殺傷について派遣自衛軍において軍事裁判を行うことができる。
 3 軍事裁判の刑罰及び手続きは法律で定める。ただし刑罰に死刑を設けることができない。
 4 軍事裁判の判決に不服のあるものは帰国後通常の裁判を起こすことを妨げない。

事故死はバスメーカーと国交省の責任だ2016年01月16日 21:03

15日未明の軽井沢のバス事故は悲惨だった。
さっそくバス会社に警察の捜査が入った。
だがちょっと待て、一般道走行スピードでの単独事故であそこまで車体が損傷し、乗っている人間の生存空間が確保されないと言うことは看過できないだろう。

まったくバスときたら、車体剛性が軽自動車と同等ないしは低いというのは許されるのか。
軽自動車は自損事故でも最大4人しか死なないが、バスでは、今回でも14人が亡くなっている。公共大量輸送機械として、ある意味飛行機と同じなのだ。
飛行機は、墜落したら生存率は限りなくゼロだが、それでもなお、生存率を上げるための最善を尽くす。
その安全設計思想は、「人間はエラーを犯す」ということである。これを前提に、まずエラー自体を起きにくくする、そのうえでエラー(誤操作)が起きても乗員の命は機械が守る、これがマンマシンシステム設計の最低基準だと思う。

バスの正面・後方・側方衝突、横転時の安全基準は、乗用車よりゆるすぎるのだ。
安全基準がもうすこし厳しければ、たとえば車体中央部に梁枠を義務化するとかすれば、今回程度の事故で死なずにすんだひとが多かったのではなかろうか。

バスの死亡事故が起きるたびにバス会社と旅行会社は責められるが、バスのメーカーや安全基準を司る国が責められることがないのは納得がいかない。
マスコミも、ネットも、なぜ衝突実験実証をバスメーカーに課し、国交省のバスの安全基準を正さないのか。

メーカーと国こそが真犯人として追求しよう。
ご遺族も是非メーカーと国を訴えて欲しい。

今こそ立ち止まって考えよう2015年11月15日 14:00

ロシアの航空機墜落がテロらしいとされ、国際会議準備中の厳戒態勢下にあったにもかかわらず、フランスで今回のようなテロ事件が起きるにいたって、テロが情報戦と警戒態勢でなんとか封じ込められると考えるのは破綻していると思うべきだろう。
ここはテロと戦うのではなく、人間をテロへ狩り立てる原因に働きかけて、テロリストの供給を断つことにより根本から根絶する方法を先進各国の中で、立ち止まって考える最後のチャンスかも知れない。
テロ対策の警備力や情報監視によってなされる自由・権利の喪失は意外に大きい。それより、テロリスト化する人間を増やさない、つまり供給を止めるために制限される、経済・軍事・政治的自由の制限の方が人間一人あたりに換算すれば、自由・権利の喪失ははるかに小さい。

前者の制限は個人の生活隅々に均等に少しずつ及び、総和は膨大な物になるだろう。
後者は、政治・軍事権力者と富の所有者に、見た目大きな制約を課すが、総和はたぶん前者に及ばない。それどころか、依って立つ価値観を変更するだけで、制限を制限でなくすことも可能だろう。彼らに課される制限は、利権(権益や国益とも言い替えられるが中身は同じもの)の囲い込みの禁止、それだけ。

富の再分配は、トマ・ピケティの大著「21世紀の資本」では、世界同時資産課税という強権的な方法で提案されているが、21世紀資本主義経済が行き着いた富の偏在を解消しさえすれば、結果は同じである。
しかしピケティの「資産課税・富裕税」は、利権囲い込みの構造を変化させない可能性が高い点が気になる。

テロ事件は、悲惨、凄惨で、暴力の連鎖を生むが、なぜテロを起こす人間を生むかということをテロがまったく解決しないどころか、という根本的欠点を持っている。テロリストが、その根本問題である富の偏在を生む利権の囲い込みには展望を持たない。
世界人口の半分を超える貧困層に、先進国と企業がグルになって囲い込んでいる利権を解放して、富の配分構造を変えることができれば、命の無駄遣いであるテロをするより、安定した収入が補償される労働を望むだろう。

後は少し残酷かも知れないが、内戦状態にある国地域から、国連安保理常任理事国が「国益」「権益」と名を変えた利権を我慢して、関与しないことにする。
当事国民にとっては酷いだろうが、武器の補給が先細りになる状況で気のすむまで戦って、自らの意思と行為で国作りをしてもらうしかない。できた国がどのような政体であれ、国際社会は拒否をしない。

有機肥料の偽装事件2015年11月07日 10:55

「有機認証」などという怪しいものはハナから信用していない人間にとっては「なにをか言わんや」だ。
「有機」にそれほど価値があるのか?消費者が確かめる(たとえば味が値段なりの顕著な違いがある)訳にはいかない。
植物はバカではない。自分に必要な成分を選択的に取り入れる。しかも分子レベルだから、その分子(たとえば窒素やリンの化合物もしくはイオン)が何に由来するのかは問題にならない。
最新の「工場野菜」や「水耕トマト」が雑菌豊富な「有機」であろうはずがない。むしろ100%化学肥料と言ってよい。
フランスなどでは、有機認証機関=基準が複数あって、「オーガニックワイン」などはまったく信用がおけないと、店を休んで「ワイン視察ツアー」をするというレストランオーナーシェフから聞いたことがある。
有機(オーガニック)認証を信じて高い金を出す人の神経はよくわからない。
今回の「有機肥料」は、ほぼ完全に「化学肥料」だったわけだが、消費者はもちろん、生産のプロである農家も、まんまとだまされてその違いがわからなかった。
結局もと肥も追肥も自分で作った堆肥を用い、栽培過程にも関与する以外に確かめる方法はないのである。
「有機=オーガニック=安心安全」にだまされたと憤慨する人は、まさに欺されるべくして欺され、その価値以上(有機バブルと言えるかも知れない)の高いコストを支払ったのだ。

http://www.asahi.com/articles/ASHC6469GHC6UBUB004.html

なぜ数学教養書に惹かれるのか2015年10月02日 23:03

昨年の秋、ふと何気なく手に取った「ポアンカレ予想」以来、数学教養書が常に手元にあるようになった。
位相幾何学(トポロジー)、素数論から派生したリーマン予想、数論(整数論)的難問フェルマーの最終定理、非線型カオス、ガロア群論、解析論の数学史、不確実性定理、これらはどれも、大学の数学専攻学生向けではなく、文系のアホでも一生懸命論理的思考法を呼び起こせば読める「教養書」である。

なぜ、これほどはまったのかは、我ながら不思議だった。
確かに亭主は、理屈(屁理屈)が好きだ、SFも好きだから、科学的な事柄にはずっと興味はある。
しかし、「ガロアに出合う」というほぼ全編数学記号で記述されている本が、結局知りたかった「フェルマーの最終定理の証明に一役買った」と書かれて気になった「ガロアの群論」が、どこから発想され、何を目指していたのかわからず、この辺が限界だと思っていた。

しかし、しばらくして大きな書店で、
「目的目標がはっきりしたおもしろい数学と、論理的な厳密さはあるもののなんの目的があるのかはっきりしない抽象的な数学がある」
と書かれた「関数と解析学の史的批判書」を見つけ、また買いあさり始めた。
数学だから、相互に関係のある概念があって、読み終えた本を読み返すと、新たな理解が深まることもある。

そこで、「なぜ」がわかった。
数学本は妙に精神が平静になり落ち着くのだ。
無機質の集合論や、論理展開をなんとか頑張って頭の中で理解しようとする過程には、感情とか、感覚とかいったものは働かない。
詰め碁、詰め将棋、数独にはまる人々もたぶん同じだろう。
バッハの音楽や、モダンジャズなどへの好みもまた、無機質だがみごとに均衡がとれた音のつながりに余計な感情に煩わされない安らぎを感じる、あれだ。

感動的な映画や小説や音楽で、心が安まる人もいれば、それらを排除した状態が安らぎと感じる人もいるのだ。

安保法案反対8月30日国会前デモ2015年08月31日 23:03

http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2015083102000127.html

民意が届かない?(東京新聞9月1日朝刊1面)
というのは、議会制民主主義を是認する限り、選挙が終わったあとではごく当然なことだろう。
思えば、安倍政権が今論議されている安保法案の「違憲論争」のもととなる集団的自衛権容認の閣議決定を行ったのは昨年の夏だった。
「たられば」にはなるが、あの時点で、昨日の半分の規模でも反対運動が起きていれば、まず自民公明の与党協議がもつれたであろう。まして創価学会員の一部に反対が出るような状況なら、公明党はねばる。
暮れの解散総選挙ができたかどうかも怪しい。できたにしても「この選挙はアベノミクス選挙であります」なととヌケヌケと言うことはできななかったろう。
当然「民意」たる選挙結果も異なる。
そうだ、「民意」は選挙以外でが通らない。「民意」の代弁者たる議員も、選挙で落選したくないという動機以外では動かない。


応援演説に駆けつけた坂本龍一氏は、運動の継続の重要性を演説の締めくくりにおいた。
彼がデモ活動に自発的に参加した人々のうねりを、フランス革命にたとえたのはちょっと違って、むしろ香港の「雨傘革命」に似ている。
香港と同じなのは、どうあがいても可決されるだろうというところ。
しかし決定的に違うのは、可決されても訴訟ができ、さらに重要なのは、来年の参議院選挙で文字通り「民意」が通るところだ。
そういう今後の運動の継続には、プロデューサー(総合演出)が必要だと思う。可決後の収斂に備え、来年7月の参議院選挙まで継続させるには工夫がいる。相手はプロの政治家で、政治家という職業は、いわば世論の煽動者であるのだ。
周到な準備のもとに違憲訴訟を準備してもらいたいし、来年の参議院選挙に向けての「演出」と「地道な営業=創価学会員の離反者を増やすこと」の両方が要る。

坂本龍一氏の演説のむすび;
>一過性のものにしないで、あるいは仮に安保法案が通っても終わりにしないで、行動を続けてほしいと思いますし、僕も皆さんと一緒に行動してまいります。

日本宗教は本当に寛容か2015年08月01日 17:30

http://feely.jp/26686/

上記サイトによると、京都の坊さんのスピーチが賞賛されているという。
「日本に宗教戦争が起きない理由とは」という演題で、アメリカのプレゼンテーションテレビ番組、2014年に京都で行われた「TEDxKyoto」の講演で語った、日本の宗教の「寛容性」を説いた内容である。

亭主は違うと思っている。
日本で「宗教戦争」の芽がない一番の理由は、江戸幕府の巧みな寺社政治が一番大きいと思う。
秀吉の天下統一前までは、一向一揆衆は、あまたの戦国大名より強く、織田信長もとことん苦しめられた。もちろん、比叡山の僧兵勢力も焼き討ちによってやっと収まった。
秀吉も高野山を攻め、徳川幕府も3代家光の代になってもキリシタン一揆に手を焼き皆殺しを選択するしかなかった。

このような為政者からの威嚇との裏腹に檀家制度や、幕府・諸大名の寄進先の選択によって、日本仏教が「骨抜き」にされた。
さらに明治政府の苛烈な廃仏毀釈政策によって政治に逆らえない体質が作られたというのが、うがった見方だろう。

日本仏教が、浄土真宗(一向宗)の影響で、他宗派も含め本来の「出家」ではなく、妻帯・世襲での世俗僧侶(性犯罪はもちろん、脱税までして金品に執着する)が当たり前になったことも、本来、ブッダの教え=解脱の方法=仏教的生活(ブッダの教えの部分を預言者を通じた神の教えとすると、ほぼすっきりユダヤ教・イスラム教になる)という宗教的「聖俗」の境を破壊してしまった。
仕上げをしたのは「宗教法人」法制度であろう。日本において宗教はしっかり世俗の「法律」の枠内に取り込まれ秩序化された(=権力に飼い慣らされた)のである。


日本仏教の俗世との不可分一体性が、際だった「宗教論争」やその延長にある「宗教戦争」にならない真の原因だと思うし、決して「寛容性」ではない。
寛容性というのは、何らかの不寛容な対立の中で獲得されるものであるから、檀家制度のもとで在俗信者の棲み分けによって対立がない寺院仏教間では、寛容も不寛容もまったく意味を持たない。
かつては激しかった、いわゆる新興宗教の中での対立が「宗教戦争」にならなかったのは、ひとえに「銃刀法」と「破防法」のゆえと考えるのが妥当である。
ひとたび「武器」を持てば、「オーム真理教テロ事件」のような状態を容易に招き、武器がなくても「心理的攻撃=マインドコントロール」というかたちで噴出することは、現実が如実に示している。

上記僧侶の言い分のような「きれい事」が通るというのは、かえって精神性が劣化している証しなのかも知れない。