現代宗教は「こころ教」化しているのか!?2015年06月12日 22:28

http://ikeuchisatoshi.com/%E3%80%8C%E3%81%93%E3%81%93%E3%82%8D%E6%95%99%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%82%AC%E3%83%A9%E3%83%91%E3%82%B4%E3%82%B9/
リンク先のブログは、池内恵(さとし)という中東イスラム宗教文化の先生のものである。

ブログで触れられているとおり、日本大乗仏教つまり仏教界のほぼ全て、プロの僧侶(妻帯しているものも多いのであえて出家僧とは言わない)による寺院宗派も、在家中心のいわゆる新興仏教教団も、同様な傾向が支配している。

わたしは「お釈迦様は悟りを開いた後なぜ80歳までの長い人生を全うしたのか」を問い続けている。
仏教の目的が「悟り=劇的な世界認識の転換=真理(正法)の体現」にあるならば、彼は35歳の「成道」で目的は達成され、その後の人生を生きる必要はなかった。
経典には、成道後のお釈迦様に悪魔が「悟った法は微妙で余人に理解できるものではない、目的の不死の法を得たのだからそれを守って疾く涅槃に入る(この場合は静かな死)べきである」とささやいたことになっている。
同時に、梵天が、「いや、この世には誰か同様な悟りを達成して、正法を理解できるものもあろう、あなたが説かないことで悟りの可能性が奪われてしまう、だから人々に悟った正法を説いて下さい」とお願いする(梵天勧請)、という記述がある。現代では悪魔と梵天は、お釈迦様の葛藤を表現する文学形式だとされている。


お釈迦様は、伝道を決意して、以後死に至る80歳まで、聞き手に合わせてケースバイケースで、真理に至る方法論(八正道)、その方法論を支える基本認識(四聖諦、三相)を諄々と説き(対機説法)、弟子たちと寝起き托鉢をともにして、日夜怠ることなく「中道」という悟った人の生活を続けられた。
お釈迦様の人生から、彼の悟った「正法」「解脱」「涅槃」というものが、日々の「正しい=中道」の生活であったことが知れるのである。
激しい欲求(渇愛)や、激情、不安の原因を、無知(無明)に求め、その対極の知恵によって瞬間瞬間にコントロールして中道の生活を続けられた。

正しい生活と真理の認識を伴う悟りとは一体で一方が原因で結果である、どちらかが優先すると言うことがなく二つでひとつ。
仏教は、少なくとのその原初の姿においては、仏教徒であるということは仏教的生活をすることと不可分だった。
ユダヤ教徒もイスラム教徒も仏教徒も、信仰とは、「教え」の通り生活すること以外になかった。
世俗と信仰の分離すなわち「こころ教」への変容は、相対的に世俗的生活=経済活動優位になったことの宗教指導者側の「言い訳」である。
当然反動として「原理主義」があり、密教の言葉を借りた「オーム真理教」もまた同じ枠組みで語られる。
オーム真理教は既存の日本大乗仏教界への痛烈な原理主義的アンチテーゼであり、それに「嫌悪」以外の反応を示さなかった仏教界の「こころ教」度合いは深刻であるということかもしれない。

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