日本宗教は本当に寛容か2015年08月01日 17:30

http://feely.jp/26686/

上記サイトによると、京都の坊さんのスピーチが賞賛されているという。
「日本に宗教戦争が起きない理由とは」という演題で、アメリカのプレゼンテーションテレビ番組、2014年に京都で行われた「TEDxKyoto」の講演で語った、日本の宗教の「寛容性」を説いた内容である。

亭主は違うと思っている。
日本で「宗教戦争」の芽がない一番の理由は、江戸幕府の巧みな寺社政治が一番大きいと思う。
秀吉の天下統一前までは、一向一揆衆は、あまたの戦国大名より強く、織田信長もとことん苦しめられた。もちろん、比叡山の僧兵勢力も焼き討ちによってやっと収まった。
秀吉も高野山を攻め、徳川幕府も3代家光の代になってもキリシタン一揆に手を焼き皆殺しを選択するしかなかった。

このような為政者からの威嚇との裏腹に檀家制度や、幕府・諸大名の寄進先の選択によって、日本仏教が「骨抜き」にされた。
さらに明治政府の苛烈な廃仏毀釈政策によって政治に逆らえない体質が作られたというのが、うがった見方だろう。

日本仏教が、浄土真宗(一向宗)の影響で、他宗派も含め本来の「出家」ではなく、妻帯・世襲での世俗僧侶(性犯罪はもちろん、脱税までして金品に執着する)が当たり前になったことも、本来、ブッダの教え=解脱の方法=仏教的生活(ブッダの教えの部分を預言者を通じた神の教えとすると、ほぼすっきりユダヤ教・イスラム教になる)という宗教的「聖俗」の境を破壊してしまった。
仕上げをしたのは「宗教法人」法制度であろう。日本において宗教はしっかり世俗の「法律」の枠内に取り込まれ秩序化された(=権力に飼い慣らされた)のである。


日本仏教の俗世との不可分一体性が、際だった「宗教論争」やその延長にある「宗教戦争」にならない真の原因だと思うし、決して「寛容性」ではない。
寛容性というのは、何らかの不寛容な対立の中で獲得されるものであるから、檀家制度のもとで在俗信者の棲み分けによって対立がない寺院仏教間では、寛容も不寛容もまったく意味を持たない。
かつては激しかった、いわゆる新興宗教の中での対立が「宗教戦争」にならなかったのは、ひとえに「銃刀法」と「破防法」のゆえと考えるのが妥当である。
ひとたび「武器」を持てば、「オーム真理教テロ事件」のような状態を容易に招き、武器がなくても「心理的攻撃=マインドコントロール」というかたちで噴出することは、現実が如実に示している。

上記僧侶の言い分のような「きれい事」が通るというのは、かえって精神性が劣化している証しなのかも知れない。

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