みをつくし料理帖2014年08月08日 11:44

「銀二貫」がよかったので、調子に乗って高田郁の長編シリーズ作「みをつくし料理帖」ハルキ文庫(角川春樹事務所)全8巻を一気買いした。
大阪の大水で両親を失い親友も行方不明になった主人公「澪」が大阪天満の一龍料亭に引き取られ、女将にかわいがられ、水の味の変化がわかる「絶対味覚」を見込まれて当時調理場に入ることのなかったおなごだけれども、周囲の反対を押し切った超一流料理人でもある主人嘉兵衛の断固とした意志で料理を仕込まれる。
しかし料亭は火事で焼失、息子が仕切る江戸の支店を頼って下向したものの、店は仕舞われ、息子佐兵衛(これも一流の料理人)は消息不明になっている。
失意のうちに主人は死にその妻、澪は「ご寮さん(大阪で女将さんを呼ぶ言い方)」芳と裏長屋に住み、神田明神近くのそば屋「つるや」で下働きしている。

主人に見込まれて小料理を任されるが、上方と江戸の味の好み、料理の基本である出汁のひき方にも苦悩する。
ある日主人種市の激しい腰痛によって、
「蕎麦はうたなくていいお前さんの好きな料理をだす雇われ主人になって『つるや』と続けてくれ」
と頼まれて、奮闘する。
鰹出汁一本であった江戸の基本出汁に、上方の昆布を合わせる合わせ出汁で作る茶碗蒸し(19世紀初頭の江戸にはなかったらしい)が評判となり「江戸料理番付」で初登場「関脇」の評価を取り、それを機に「大関」番付の料理屋の嫌がらせを受け、ついには放火によって「つるや」を焼失。澪本人も主人種市老人もご寮さん芳も失意のどん底に落ちる。
しかし、思わぬ人の助けを得て、再起を図ってゆくことになるのだが・・・

テレビ朝日系列でシリーズ放送もされていて、主人公澪を北川景子(神戸人で上方言葉は問題なし)が演じているのだが、原作の澪はあれほどキリッとした美人ではない。
なにせあだ名が「下がり眉」つまり眉尻が下がって、落胆すると大いに下がり、気合いが入ると上がってくるという味のある顔立ちなのだ。終始キリッとしている北川では、その楽さは味わえないだろう。

ぴったりの女優は、現在小学4年生の「本田望結」が高校生になる6年後だろう。京都人で、丸顔「鈴を張ったような丸い目」下がり眉、全てにかなう。

政治家なら2014年08月16日 11:16

「戦争で犠牲になった方々へ哀悼の意を捧げる」のはけっこうだが、政治家なら「国の誤った政策によって」と付け加えていただきたい。
戦争を起こせるのは「国家」だけだからだ。個人とか団体が行えば「テロ」か無差別殺人かにしかならない。

国家だけが、税金を投入しての公認「破壊殺人行為」である戦争の首謀者になれる。
しかも「国益}とか「国家の威信」とかいう概念(観念上のもので実体はないのだ)を自国民と他国民の人命より上位に置くという、価値判断の誤りを犯したときに戦争する。
それゆえ、自分が戦争の最中に政治家であったか否かにかかわらず、国家の責任に頬被りして「他人事」のように語ることはゆるされない。
常に「国家の誤りによってなくさなくてもよかった命を失った戦争被害者に、痛切な反省と哀悼の意を申し上げる」でなくてはならない。

靖国神社は宗教法人だから、何を祭神(英霊)に祀ろうと自由だが、政治家は、戦争で死ななければ英霊以上の仕事をしたはずの人々に、あなた方の未来を「国家の誤った政策によって」奪ったことを、詫びねばならぬ。
それこそが「不戦の誓い」であろう、政治家のそれとは「誤った政治選択をしない」であるのだから。

国民の命と信託の上に「国家」があるのであって、国家が価値上位では決してない。
再び「英霊」の大量生産をしなくて成り立たない国家など、とうに破綻した無価値な組織であるのだ。

高校野球の投球制限2014年08月27日 21:01

わたし的ナンバーワン女子アナの大江麻理子アナが夏休みなので、昨夜は膳場貴子キャスターの「ニュース23」を見て寝た。
高校野球が終わったおりでもあり、ゲストに桑田真澄さんを迎えての、高校生投手(少年野球を含め)の投球制限についてだった。
決勝まで6試合一人で投げると、日ハムの斎藤佑樹投手みたいに引き分け再試合があると900球を超え、松坂であれ田中であれ、700球以上を投げ抜く。
そしてプロへ行き、さらにアメリカで少し重めのボールで変化球を多投すると肘を壊す結果となっている。

興味深かったというか「これはあかんわ」と思ったのは、この問題に対する、帝京高校、横浜高校の監督の言葉だった。
彼らは投球制限(たとえば1試合100球)には反対の立場で、限界を超えてでも投げ抜くという精神力(武士道精神と言ってたのもいた)が、日本人にマッチした野球の姿であり、それが感動を生むといって憚らなかった。根性指導によってその後の生き方に得るものが大きかったと感謝する生徒が多いと豪語していた。
しかし、こうもいう「もし100球制限となったら、イヤな投手にはさっさと100球投げてもらおうとする球数作戦が横行し、1球1球勝負するという真剣な対戦の醍醐味がなくなる」
はて、「武士道精神」だの「チームのため自分の限界を超えて貢献する」と言ってた、どの口がそう言うのか。「投球制限」が導入されたら、そういう下らない作戦を生徒選手に命じる気満々ではないか。

なるほど、「高校生らしい」「プロ野球にはない根性ドラマ」という演出で、甲子園での」高校野球という「興業」が成り立ってしまっているから、その幻想から抜け出せなくなっているのだと思う。
「甲子園」というブランドにより、等身大の高校生が持っている価値以上のプレミア(流通価値)がついてしまい、プロ級のスター選手を頂点とする「スターシステム」ができあがっている。
たぶん秋の神宮野球大会とかインターハイ、国体での観客動員数や話題性が「本来の価値」だ。
監督も、単なる「全国大会」優勝校監督より、「甲子園」優勝監督と呼ばれるほうにはるかに自己満足を感じ、世間にもてはやされる喜びを感じているのだろう。
しかしこういう幻想(甲子園バブルと私は言う)をはぎ取って、野球というスポーツを生涯にわたって続けられるような生徒選手の身体的配慮への価値を前面に押し出せば、「投球制限」は、それに伴うチーム編成、とりわけ指導の在り方を根本的に考え直すいい機会だと思うのだ。
斎藤佑樹、松坂、田中の故障がでたとき、むしろ高校野球指導者が自主的に「投球制限」を持ち出し実現に向かうべきだったろう。

高校野球の投球制限に渋い顔をする監督は、過去の「成功体験」から脱することができないだけである。
これだから体罰や、体罰に近い熱血根性指導(野球のスキル向上や楽しさとは関係が無い)が、いつまでたっても改まらない。
卒業後の選手には「精神的な何か」は残っても、「好きな野球を思う存分やる、長い間プロ野球で活躍する」という未来は奪ったことに思いをいたし、猛省して欲しい。