錦織効果は波及しない2014年09月08日 20:50


テニスの全米オープンで錦織圭が決勝に勝ち上がり、さぞかし今後はテニスをする若い人が多くなるだろうというウワサがあるが、それはないと断言する。
「テニスコートでの出会い」とか「かっこよさ」など余計なものを求めて、テニスをするという不心得な若者はもはや過去のものだ。
個人の所得が「中間層」を失い二極化したのと同じく、スポーツの世界もまた、できればプロまたは職業までいく「スポーツエリート」と、スポーツは健康のために身体を動かすぐらいしかしない、お金をかけるなんて考えもしない「スポーツ無関心層」に分かれてしまうだろう。
それはちがう「スポーツを楽しみ、そこそこ金をかけている人はいっぱいいる」と言われる方もいるだろうが、金をかけているのは現在の中高年であって若者ではない(子供は親の金による)ことを観察して欲しい。
現在の中高年が若いころは皆「不心得もの」であったか、運動スキルとは別物の「根性とか精神の鍛錬」を目的としてスポーツをしていた「勘違いもの」であったかいずれかである。

中高年はあと30年もすれば死ぬからどうでもいい。
今の若い世代の「運動音痴」は実に多く、その音痴ぶりは自分の同世代とは質が違う。
たとえば近くの公園で小学生が、よく野球(?)をしているが、ボールが投げられないし取れない、要するにキャッチボールが成り立たない。投げればどこへ行くかわからないし、正面に来たら落とすし、少しでもずれればバンザイ、バウンドすればトンネル、ボールはグラウンドを縦横に転がり子供たちは追いかけて走る。投げたボールがむちゃくちゃなので、バットがボールを打つなどということはまったく起こらない。グローブとバットを持っていなければ野球だとはとても思えない。
ほとんどの3歳児は、転がされたボールもとれない。動いているもののスピードを見て予測した位置に手を出してつかむ、という目と手の同時制御ができるまで脳が発達していないからだ。
現代の小学生は、ほぼこの「運動脳年齢」と思えばよい。
聞くところによれば、走り幅跳び(走って踏み切って飛ぶ運動)ができず、砂場を走り抜ける子供が多数いるらしい。
私のかつての同僚の中にも、20歳下の世代には、キャッチボールをして顔の正面のボールがとれず鼻を骨折した奴や、バレーボールのアウトボールがよけられす指を骨折したり、テニスのサーブで空振りできる男子がいた。
彼らが「下の下」ではなく、中の下ぐらいの入るところが、私の観察した現実の厳しさである。

毎年10月の体育の日を期して国民の運動能力調査が発表されるが、「平均」など統計マジックに騙されてはいけないだろうと思う。
日本のスポーツ事情は、錦織圭や、多くのメジャーリーガーや、国際大会でのメダリスト、プロサッカー選手の活躍とは裏腹に、深刻に暗いかも知れない。

みをつくし料理帖を読み終えた2014年09月11日 11:00


8月から読み始めて1ヶ月もかかってしまったが、面白かった。
高田郁作「澪つくし料理帖」(ハルキ文庫)である。
「文化・文政時代」と呼ばれる19世紀初頭、徳川家斉将軍の治世で、長い太平と鎖国により日本独特の「江戸文化」が花開き、ある意味日本人がもっとも日本人らしい時代であったと言える。人情に篤く、義理堅い、つましくはあっても、身の丈より少し背伸び(見栄を張って)をしても「いいもの」を愛でる、そういう江戸っ子気風が定着した背景の中での人情話である。

物語は章ごとに主人公澪の作る料理の名前がついており、その料理を食べに「つるや」に集う江戸庶民や常連客、「つるや」の奉公人一同の様子が細やかに優しい視線で描かれている。
武士の町江戸を舞台にしているが、緊迫の斬り合いもなければ、捕り物も、胸のすく謎解きもない。あくまで町人が主人公の話が続く。
3巻を読んでいる最中に同じような話しの連続で単調になるかとも思ったが、全体を貫く3本の縦糸と、澪自身に、また主要登場人物の身に起こる事件を横糸に配し、最後は縦糸の上に横糸が織り上げられて息をのむ一反の織物に仕上がるみごとな構成力と、緊張感を保つ巧みな物語表現力を兼ね備えた傑作である。

縦糸の1本は、吉原でまぼろしと噂される「あさひ太夫」が、幼なじみの親友「野江」だとの次第を知り、なんとしても自由の身にしたいという強い願い。
もう1本は、息子佐兵衛とともに失なったかつての「天満一兆庵」の再興をご寮さん(ごりょんさんと発音、商家の女将のこと)芳から託されたことによる使命感。
最後の1本は、これは太夫の正体を知る前から、つまり物語の最初から最後までを貫く「芯」と言ってもいいのだが、ひとに喜んでもらえる美味しい料理を作りたいという飽くなき向上心と工夫だ。
三つの強い思いに導かれ、時に翻弄されるる澪の成長と苦悩がしっかりと全体を引っ張っている。

横糸となる登場人物は実に魅力的に描かれている。
つるやの店主「種市」、長屋の隣家大工の伊佐三・おりょうの夫婦、洪水孤児の澪を救った大坂の名料亭天満一兆庵のご寮さんで澪とともに暮らす芳、幕府御殿医の次男だが町医者に徹する永田源斎、謎の浪人風武士小松原、あさひ太夫の専属料理人又次。
作者の巧みなところは、これらの人物が、人情に篤い「江戸っ子(芳と澪は大阪人)」で基本的に「善い人」でありながら、皆「翳り」というか「欠けたもの」を抱えていることだ。これにより人物や引き起こされる事件が重層的により深い緊迫感をもって描かれる。

時代背景も、実際に起きた洪水や大火、遊里吉原の風俗も描かれる。さらに歴史上実在人物も里見八犬伝の曲亭馬琴は清右衛門というわがまま文句言いの戯作者として、その友人辰政は葛飾北斎、いずれも当時名のっていた名前のままで登場する。

3巻で感じた「退屈感」も縦糸による強力な構成力で引っ張られひと月で読み切ることができた。読書量が一番多かったサラリーマン時代なら、寸暇を惜しんで読み、たぶん3週間かからなかったろうと思われる。

臨死体験=脳の錯覚に賛成する2014年09月15日 11:27

脳とは人間に錯覚によって世界を見せる装置だから、臨死体験は脳の最後の錯覚だろう。

3次元世界にいる人間は、3次元立体そのものを見ることはできない。
そんなことは無いというひとは、なぜ物体の「裏」が見えないのかを考えてみることだ。見えない裏側が「あるかように認識できる」というのは、脳がそう錯覚させているからだ。


まだわからない人は、平面(2次元)の生き物を想定してみよう。
2次元(平面)生物に見えるのは「線」。図形を認識するときは、見えている「折れ曲がった線」は見えても図形の「奥にある線」を見ることは決してできない。
「奥にある線」を含めた三角形などの図形は、平面にひとつ「高さ」という次元を加えた3次元生物が「上から」俯瞰しないと見えない。

3次元世界にいる我々も同じなのだ、「線」が「平面」に変わるだけ。
左右の目の網膜に映った、平面画像のわずかなズレを脳内で処理して「錯覚」を作り出しているから、立体「的」に見えるにすぎない。立体の「奥にある平面」は認識できると錯覚させられているだけである。
電磁波である可視光に「色」が見えるのももちろん錯覚で、色認識が人間と他の生物で違うことでもわかる。
このようなわけから「脳とは錯覚を作る装置である」こと、それによってこの世界を生き抜く生き物の巧妙な仕組みであると断言できる。

「脳が働いていない」というのも信じてはならない。
今のところ脳の活動は「脳波」で測定されているだけで、脳波が測定できないからと言って、脳が活動していないとはいいきれない。
考えても見よ、ほんの20年ほど前までは「心肺停止の状態」という報道表現はなく、たんに「死亡」だった。
蘇生技術の発展によって、息が止まり鼓動がなくても「死んだといわないことにしておこう」というのと同じく「脳波が測定できない」というのは将来覆る可能性大だ。
人間の測定技術によって、200年前には存在しなかった電磁波も、ウイルスも、素粒子も存在することになったのである。

ブッダとなったお釈迦様は、「死後魂は存在するか」という弟子の問いには回答を拒否した。
それは「存在する」と言っても「存在しない」と言っても確かめようもなく、無常であり苦であるこの世に「ちゃんと生きる=苦を滅する」ことには、まったく意味が無いからだ。
死んだあとに「何かの存在=心?」が残ると思えば、生きてる内にやるべきことがおろそかになるではないか。
それこそブッダお釈迦様が、苦行と放逸とともに放棄した生き方であろう。

「心とは何か」を考えるというのは、人間の「不治の病」だ。
心もまた、時と状態により有り様を変える「変異することをその性とする」無常の存在で、仮構されたものだとブッダは繰り返しといている。
人間の観念の内にある「形而上学」の問い、正解のない、あるいは正解だと思った答えがたちまち変移してしまう問いに人生を費やすことは、「ちゃんと生きる」ことには関係が無い。

変移によってもたらされる「生きる」というストレスに圧倒され、わけもわからず振り回されることが人間の「苦」だと、ブッダであるお釈迦様は説かれ、その「苦」を滅する努力をすることが人間の究極の知恵であり目指すべきものだと、少なくとも仏教徒は思いをいたすべきだろう。
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0914/