勉強するのはどっちだ!?2015年07月26日 16:56

http://blogos.com/article/123751/

「勉強不足です、勉強してください」と題された上記ブログの書き手は自分の言う通り勉強しているのだろうか。例えば以下のように反論されたらどう答えるのだろう。


まず筆者は、「9条だけを見ずに前文から読め」という。しかし引用した前文は典型的な恣意的な抜粋である。
>われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

その前後にはこうある。
まず、前段、
>政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。


とある。ここに9条の存在理由と運用基準があると見るべきである。さらに、ブログ引用文の直前には、
>日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

とあるので、政府の行動は「戦争の惨禍を起こさない」ことに限定され、「諸国民の公正と信義に信頼して(ここには武力が含まれないことに注意せよ)」を基準とする。

さて、ブログでは9条を検討する前に、国内法ではない国連憲章に飛ぶ。
ここは不思議である。憲法を頂点とする国内の法体系について論じる論点と、「国連憲章(国連加盟のための規約)」がずれることは否めない。いや自身の主張のために都合のよい抜粋を行ったというべきだろう。

国際法の優先を言い出せば、ずいぶんとブログ筆者に不利なこともある。たとえば「東京裁判」だ、戦争犯罪人として裁かれたことを、ブログ作者のような考えの持ち主は認めない。
巣鴨プリズンに収監された人々(安倍総理の祖父岸信介は最悪のA級犯罪者だった)を「戦争犯罪を定めた国内法がない」という理由で、サンフランシスコ講和会議によって占領が解かれた後に釈放したのは、現在でも有効な「戦争犯罪にかかる国際法」を無視したことになる。
9条そのものに移ろう。国際法と国内法は峻別しなければならないことは、法治国家にとっては当たり前である。国際法とずれが生じた国内法である憲法を一致させたいなら、憲法を改正するというのが世界の法秩序である。

ブログ筆者は9条を素直に読めば「自衛隊は違憲」である。と認める。
ただし次ぎに続くのは、一見違憲のはずの自衛隊がさまざまな歴史的現実を踏まえて合憲とされるに至る過程と同じく「新安保法制」を合憲とするのは同じ論理でよいという。つまり「国連憲章優位」説である。

しかし現行自衛隊の戦闘行動は、「日本が受けた(受けそうだというのではない)武力攻撃に対する自衛権(個別自衛権)」に限定される。
このことを認めさせた憲法解釈が、9条二項にある「前項の目的を達するため」の文章が第1項のどこを指すのかという文章論理の問題だった。
「国際紛争を解決する手段として」に限定していて「自衛権」は含まないと解釈して「合憲」とされたのである。
このような経過を不勉強か、恣意的な解釈に不利ゆえに排除したかのいずれかである。

素直に読めば(高校生の読解力で)自衛隊が、9条二項で禁じられた「戦力」であることは疑いないが、違憲だから組織解散とできないのは、大量の失業問題や、領海領空の侵犯への対処があるゆえの妥協である。
妥協のもとは上記「前項の目的を達するため」解釈の無理矢理のあてはめに他ならない。

私は陸上自衛隊の、戦車と野砲などの重火器(旧帝国陸軍でも断念した「本土決戦」でしか使わない=事実上使用機会が無い)を廃棄して、対空防衛ミサイル部隊、対テロ特殊部隊のほかのほとんど全てを補給部隊と工兵、災害派遣部隊に振り分け、道路や橋の架設などの災害復旧専用特殊車両と装備に置き換えるべきであると思っている。

「勉強」とは、自己の主張に合致する資料のみをえこひいき的に読むだけではなく、反証も合わせて読み込み、その2つの比較検討を公平に行うことである。
好きな料理の好きな味付けしか認めないということは、「小児的」思考と言わざるを得ない。
大人は「嫌いなもの」はあってもその存在はちゃんと認め、好き嫌いを除く議論ができなければならない。

立憲主義について中学生に説明する2015年06月29日 13:24

玉木雄一郎という民主党の議員のブログ(http://blogos.com/article/119214/)の解説がわかりやすいと評判になっているようだが、中学生に説明するにしては、野党的焦りが先走った政局的解説になっている。
亭主なら、以下のように説明するだろう。

日本は、国民のやってよいこと、いけないこと、もめ事が起きたときの解決の方法を法律によって決めています。学校の校則とかスポーツのルールを思って下さい。
では法律さえあればなんでもOKだとどうでしょう。
たとえば先生が認めたら誰かをいじめてもいい、なんて校則ができたら困りますよね。
こういう誰かが自分に都合のよい法律を作れないように、法律の基準つまり「作ってよい法律とダメな法律」を決めておく必要が出てきます。
とくに「いじめダメ」「えこひいきダメ」みたいに、「ダメ」なところははっきり書いて置くことにしておきます。
そうしないと、弱い立場の人がひどい目に遭ったり強い人がより強く、独り占めなんかをしてしまうかも知れないからです。
一方作ってよい法律は、ゆるくてもかまわないのはわかりますね。


政治は、法律に従ってお金(税金です)を使い、人を集めて(公務員とか官僚ともいいます)監督したりします。また必要な法律を作ったり時代遅れになった古い法律を書き改めたりします。
ここで、法律の基準に絶対に違反しないということが、国民が安心して納得する最低条件となるわけです。
この全ての法律の基準、決して違反してはならない取り決めが「憲法」です。
憲法とそれに違反しない法律に従って政治をするのが「立憲主義」です。憲法が、法律と政治が勝手なことをしないように見はっているという感じです。

歴史を勉強した人は、昔、王様とか皇帝、日本では幕府(将軍)が「余に逆らってはならぬ」と、目を光らせて支配していたことを勉強したでしょう。
とても賢くて立派な王様たちがいるかと思えば、むちゃくちゃだったり残酷だったりする皇帝たちもいて、それは国民にとってはたいへん困ります。
「立憲主義」というのは、憲法を王様、皇帝、将軍とたてまつって、逆らってはならんことにしたといえます。
ただ、人間の王様と違って憲法は、国民が話し合って「どうも今の世の中に合っていないなあ」と思えば、変えてしまってよいのです。
憲法という王様の目を盗んで、こそこそする必要は無く、王様が間違っていると思えば変えることができる、ただしちゃんと手続きして決まったことには逆らえない、立憲主義というのは国民が自分たちの支配者を、自分たちで決めて、憲法という文章(ルールブック)にして誤解が生じないようにしておくということです。

ポスト大阪「都」構想2015年05月22日 10:30

昨夜のテレ東「カンブリア宮殿」は、文化財の内外装修復の最大手、小西美術工藝社の社長だった。彼は元金融アナリストで、茶道の師範、42歳で日本家屋で「隠居」していたところを請われて就任したイギリス人。
会社は現在、日光東照宮の彩色塗装の修復を行っている。
彼が文化財修復の世界には行って驚くのは、日本が文化財修復にかける予算の少なさである。国家予算としては81億円、故国イギリスでは500億円。
しかも日本では、建築構造物としての修繕が主で、内装などは「古びて赴きあり」の域を超えて単なる「ボロボロ」だという。もちろん観光産業への活用波及はほとんど無いという。
好例は、彩色が剥がれて地元民も見向きもしなかった埼玉県のお寺のお堂を、創建当時の色彩に修復したら、なんと「国宝」してとなり年間80万人を超える観光客を迎え、地元にはガイドなどの波及が生まれた。

彼は断言する、文化財こそ地方創世にもなる観光の核である、観光産業は世界平均でGDPの9%、日本は2%台、つまり観光を「世界平均」とするだけでGDPの伸びしろが確保される。
モヤモヤしていた、砂上の楼閣にすぎなかった「大阪都構想」への対案が明らかになった気がする。
大阪には、豊臣秀吉が開発したころから江戸時代の「商人の町」としての膨大な文化的集積がある。
橋下市長が予算を削りに削った「大阪固有の文化・文化財」「歴史」を徹底的に掘り起こして、観光資源として組み込んで行く。

東京のおもしろさは、実は、華やかで流行の先端を行くものと、江戸に根っこをもつ古い伝統文化との出会いがあるところだと思う。
大阪だけでは難しいところもあろうが、ほんの半径40キロの中に京都・神戸・奈良があるではないか。
京都にあって大阪にないのは、文化的閉鎖性つまり自己の文化へのこだわりと不断の維持管理の差ではないか。
まずは大阪の文化財への徹底立て直し・修復、そしてなにが大阪らしい大阪固有の文化なのかを見直すことだろう。
観光は、固有で個性的な文化を見せることに尽きる。文化財というハードは徹底的に「見て感動するほど素晴らしい」レベル(藤祭りで触れた、塚本こなみさんのいう「感動分岐点」を超える)までメンテナンスされなければならない。

大阪に文化がないか?ある。
京都には京都の、神戸には神戸、奈良にも、吉野にも高野山にも、関西一円には観光産業経済規模を世界平均に近づけるだけの資源はあるではないか。
しっかり補修された、美しく壮麗な「国宝」「重要文化財」を核とする観光産業は、ガイドや、小西美術工藝を頂点とする修復会社、宿泊施設、食堂、外国人の観光ガイド業など裾野が広がる。
GDPを世界平均にあげると、100万人単位の雇用も生まれ、文化財修復の職人技術の継承もスムーズに行われる。
文化財こそ予算のかけがいのある「地方創世」だそうだ。
賛成だ。
ヨーロッパの都市が、最新の超高層ビルで観光客を引きつけているか?「ノー」だ。歴史的景観と文化財・美術品で観光業が成り立っている。
歴史は「江戸時代以前」だけではない、明治~昭和もまた歴史なのだ。
大阪を始め関西復権(観光産業での)は、「関西文化の都構想」こそふさわしい。

憲法を改正しよう2015年05月03日 13:56

憲法記念日だからひと言、私は憲法に関してはリベラル改憲派である。
9条は、解釈の曖昧さをなくし、自衛隊の現状を肯定した次のような条文に改正すべきである。
9条1項 
 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる 戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
(これは理念なので変えない)
2項
前項の規定にかかわらず、自国防衛のための自衛権に基づく軍事力はこれを保持する。
3項
第2項の自衛権の行使は、日本の領土、領海、領空および国際条約上で認められた排他的水域、国際機関の合意のもとで行う平和維持活動中の地域の中で、他国による日本および国際機関の合意事項を遂行する国に対する戦闘行為があった場合にのみ認められる。
4項
日本国と第3国との間の双務軍事同盟および集団的自衛権はこれを認めない。
5項
国の徴兵権はこれを認めない。


次ぎに問題になるのは24条=婚姻である。大胆に同性婚に道を開いておいた方がよい。
現行; 婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
改正案;婚姻は配偶者間の合意により成立し、配偶者が同等の権利を有することを基本として・・・云々。
2 配偶者たる要件は法律でこれを定める。

財産権とりわけ私有財産の不可侵権を規定する29条は、トマ・ピケティによる「資産課税強化」の方向性を明確にして、相続による資産占有層の固定を減じるうえで改正すべきである。
29条 現行;財産権は、これを侵してはならない。
改正案;財産権は相続によって得たものを除きこれを侵してはならない。
第4項(付加);相続で得た財産の内容は法律でこれを定める。

議会制民主主義(間接民主主義)の限界を補完するため直接民主制(国民投票)の地位を定める。
41条 現行;国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
改正案;(41条の1として挿入する)前条にかかわらず、国会の発議による国民投票による結果は、国会での議決にかかわらず国権の最高意思決定とする。
第2項;前項の国民投票に関する要件及び手続きは法律で定める。

衆参両議院議員に関する45条46条の次ぎに付け加え、「1票の格差」問題に対応する。
改正案(46条の1);両議院の議員の権能のうち、議決権については、選挙区の有権者数の格差によって2分の1を下限として制限することができる。
第2項;前項の制限に関する要件と手続きは法律で定める。

最高裁判所の憲法審査権を定めた81条につぎの条文を追加する。
現行;最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。
改正案(81条の1);国民は、国会で審議されまたは議決された法案が、憲法に違反すると認めるときは、最高裁判所に訴えを提起することができる。

地方の議員を選挙で選ぶことについて定める93条第2項を改正する。
現行;地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
改正案(第3項);前項にかかわらず、地方公共団体の議員については選挙に代えて抽選など公平な選出法を採用することができる。

存立危機武力事態って何だ!?2015年04月19日 13:51

与党安保法制議論で出てきた「存立危機武力事態」というのはわかりにくい、悪熟語の典型のようなものだけど、簡単にたとえると、ヤクザ(暴力団)が、縄張り死守・しのぎの確保、これを犯すやつは生かしちゃおかねえ、と言うこと。もちろんやられる前にたたきつぶす。
さらに、国が「存立危機武力事態」に対処できるなら、国民にも拡大したら、めでたくアメリカのように「危険を感じたらぶっ放して殺しても正当防衛」の銃による自衛社会ができる。外食店もコンビニも武装、いたずらのつもりで爆竹放り込んだらショットガンをあびる。
ストーカーは確実にやられて補償なし(自衛のための正当防衛だから)、メールやLINE、SNSも個人の平穏な日常生活の存立を脅かすとすればぶっ殺して罪にならず。
国家が設定するといかにも正当なように思えるが、個人に引き寄せて考えるとむちゃくちゃなことだということがわかる。