ジャーマンウイングス機の墜落2015年03月27日 20:40

ジャーマンウイングス機の墜落に関して、ボイスレコーダーの解析から、副操縦士が故意に墜落させた可能性が疑われている。

これは大変深刻な事態だと思う。

人間が操作する乗り物に客として乗るという、きわめて当たり前の信用関係に疑問が投げかけられたからである。
我々はなぜ、どこまで他人が操作する乗り物という機械を信用しているのだろうか。
機械システムの構造や性能を完全に理解して信用しているわけではもちろんない。しかも機械は人間より硬いし重いし速いから、制御不能になって暴走すれば、確実に人間を死に至るまで破壊することは知っている。
では、操作をする人間を理解しているかというと、機械よりはるかに「ブラックボックス」と化しているというべきだろう。誰もその人間の性格が短気なのか慎重なのか判らないし、技量も知るすべがない。
つまり機械と人間という不確定の掛け算で不確定な「乗り物」に乗るのは、ある種最低限の信用が付与されているからに他ならない。
それは、「人間は死にたくない、怪我したくない」という暗黙の共通理解に基づく信用である。普段はあまりにも当たり前すぎて意識にものぼらないし、それが無くては人間が社会生活することすら不可能になるとも言える、道路などのハードなインフラ以上の社会の最深部のインフラであろう。
「死にたくない」
これが乗客と操作者に共通していると思っているから、「いざとなったら助かる方向に操作する」と信用することができている。
今回の「副操縦士が故意に墜落させた」というのは、この信用を根底から覆している。

「死にたくない」という共通基盤が存在しない人間は、どれほど恐ろしいか。それは太平洋戦争で「特攻」がアメリカ兵を震え上がらせ、911でアメリカ大統領を逆上させ、中東での自爆テロになすすべがないのでも分かる。
もっとも恐ろしいところは、副操縦士が「普通の」人間であって事前には何の兆候も見いだせなかったということである。
こうなると、彼は「1人」であると同時に「全ての人間」である可能性を示してしまった。テロリズム思想に染まっているわけでも、精神や人格の偏りでもなく、まったく他の人間と区別することができない「人間」全ての代表となったのである。

「死にたくない」が消えていくということは、戦争やテロを敢行する性向と同じかそれ以上の、人間性の根幹であるの社会性を否定し、人類のアポトーシスが始まったと言ってよいほどの脅威であると思うのだ。