本当に傷ついたのか?2019年08月09日 11:10

ふと思う、従軍慰安婦問題の象徴とされた少女像や徴用工問題を仮託されたやせた労働者の像をみて、あるいはその存在を感じて、本当に傷つく人はいるのだろうか。いたとして心のどこがどのように傷つくのだろう。
理屈から言えば、現代の日本人が個人の心として傷つく要素はないのではなかろうか。
昔の悪事をネチネチ見せつけられて、ムカつくと言うことならわかる。これは非常に攻撃的な心理でって「傷つく」というようなメランコリックなものの対極にあると言ってよい。
国家としての日本の尊厳みたいなものが傷つけられたので、国家を愛し国家と一体に自我を重ねる自分としては、傷つくべきである、ということはある。
でも、19世紀~20世紀前半の世界情勢では当然であったにせよ、植民地支配をし、かなり被征服民として差別感情を持ち現代にいたってもその感情を根強く残す扱いをした過去は、そんなに自慢できることではなく、現在ではむしろ「懺悔」すべきものではないのか。
しかも当時の政体は解体され、日本は独立を奪われ(≒滅んだ)、死ぬ必要はなかった非戦闘員もメガ人単位で死んだ。そこまで追い込んだ「広大な植民地をもつ偉大な帝国」が最終的に日本国民にもたらした成果は「悲惨」の一語に尽きる。この歴史的事実は誇るべきことではなく、恥ずべき失敗でしかない。
だから、個人的感情としても、国家と自我の合一にまで拡大した自我においても「傷つく」心理的要素はない(恥じ入る要素ならある)といえる。
たぶん「傷ついた」という人々は、国(時の為政者)が「傷ついた」と言えば自分も「傷つかねばならない」という条件反射レベルまで強化された学習・習慣によるのだと想像する。
多分に「国のため、組織(会社など)のため、家族のため」が優先し、そのためになされた個人レベルの「悪」も「必要悪」「逆らえなかった」と強弁して(最近でも謝罪会見で見ることができる)自分も他人も納得させようとする人々で、傷つくという心理や自分が悪いと言ったことがらは理解できない気がする。