なぜ数学教養書に惹かれるのか ― 2015年10月02日 23:03
昨年の秋、ふと何気なく手に取った「ポアンカレ予想」以来、数学教養書が常に手元にあるようになった。
位相幾何学(トポロジー)、素数論から派生したリーマン予想、数論(整数論)的難問フェルマーの最終定理、非線型カオス、ガロア群論、解析論の数学史、不確実性定理、これらはどれも、大学の数学専攻学生向けではなく、文系のアホでも一生懸命論理的思考法を呼び起こせば読める「教養書」である。
なぜ、これほどはまったのかは、我ながら不思議だった。
確かに亭主は、理屈(屁理屈)が好きだ、SFも好きだから、科学的な事柄にはずっと興味はある。
しかし、「ガロアに出合う」というほぼ全編数学記号で記述されている本が、結局知りたかった「フェルマーの最終定理の証明に一役買った」と書かれて気になった「ガロアの群論」が、どこから発想され、何を目指していたのかわからず、この辺が限界だと思っていた。
しかし、しばらくして大きな書店で、
「目的目標がはっきりしたおもしろい数学と、論理的な厳密さはあるもののなんの目的があるのかはっきりしない抽象的な数学がある」
と書かれた「関数と解析学の史的批判書」を見つけ、また買いあさり始めた。
数学だから、相互に関係のある概念があって、読み終えた本を読み返すと、新たな理解が深まることもある。
そこで、「なぜ」がわかった。
数学本は妙に精神が平静になり落ち着くのだ。
無機質の集合論や、論理展開をなんとか頑張って頭の中で理解しようとする過程には、感情とか、感覚とかいったものは働かない。
詰め碁、詰め将棋、数独にはまる人々もたぶん同じだろう。
バッハの音楽や、モダンジャズなどへの好みもまた、無機質だがみごとに均衡がとれた音のつながりに余計な感情に煩わされない安らぎを感じる、あれだ。
感動的な映画や小説や音楽で、心が安まる人もいれば、それらを排除した状態が安らぎと感じる人もいるのだ。
位相幾何学(トポロジー)、素数論から派生したリーマン予想、数論(整数論)的難問フェルマーの最終定理、非線型カオス、ガロア群論、解析論の数学史、不確実性定理、これらはどれも、大学の数学専攻学生向けではなく、文系のアホでも一生懸命論理的思考法を呼び起こせば読める「教養書」である。
なぜ、これほどはまったのかは、我ながら不思議だった。
確かに亭主は、理屈(屁理屈)が好きだ、SFも好きだから、科学的な事柄にはずっと興味はある。
しかし、「ガロアに出合う」というほぼ全編数学記号で記述されている本が、結局知りたかった「フェルマーの最終定理の証明に一役買った」と書かれて気になった「ガロアの群論」が、どこから発想され、何を目指していたのかわからず、この辺が限界だと思っていた。
しかし、しばらくして大きな書店で、
「目的目標がはっきりしたおもしろい数学と、論理的な厳密さはあるもののなんの目的があるのかはっきりしない抽象的な数学がある」
と書かれた「関数と解析学の史的批判書」を見つけ、また買いあさり始めた。
数学だから、相互に関係のある概念があって、読み終えた本を読み返すと、新たな理解が深まることもある。
そこで、「なぜ」がわかった。
数学本は妙に精神が平静になり落ち着くのだ。
無機質の集合論や、論理展開をなんとか頑張って頭の中で理解しようとする過程には、感情とか、感覚とかいったものは働かない。
詰め碁、詰め将棋、数独にはまる人々もたぶん同じだろう。
バッハの音楽や、モダンジャズなどへの好みもまた、無機質だがみごとに均衡がとれた音のつながりに余計な感情に煩わされない安らぎを感じる、あれだ。
感動的な映画や小説や音楽で、心が安まる人もいれば、それらを排除した状態が安らぎと感じる人もいるのだ。
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