skiするならヘルメット ― 2015年02月02日 23:54
買ったら試したくなるものだから、白馬八方尾根で赤いヘルメットをデビューさせた。
初日の29日は、麓の定宿でもマイナス15度ぐらいに冷え込んだが、八方尾根のリフトで行けるトップのリーゼングラートまでいった。
ちゃんと「立ち入り禁止」の手前で撮影していることに注目せよ。
整地派は、いいお客なのだ。
ここからノンストップで、リーゼンスラロームコースを一番下の名木山まで下る。所要時間は15~20分ぐらいだろうか。
この日も次の日(牡丹雪が多量に降った)も「八方サーキット」を2周はしたので、45㎞/日ぐらい滑ったのではないか。
2日目にはちゃんとヘルメットの安全性を、兎平(有名なコブ斜面ではなく整地してある方)の中ばで左側頭前部から転倒して確かめてきた。
雪と霧で雪面が見づらく、左足下に小さなギャップがあると思いながら右に乗り移ろうとしたら、右足が空中にあって前方へ吹っ飛んだわけだ(簡単にいうと左足片足ジャンプした)。
頭部は完全に守られ、髪の毛1本も抜けることはなかった。アッラーの次ぎにヘルメットは偉大である。
そうだ!
オレは、新しいものが好きだ。
幟旗に「長野県地ビール第1号;南信州ビール」とあったのに引かれて、咲花高速クワッドリフトを降りたところにある、日本人との遭遇率が限りなく低い(八方はほぼオーストラリアのスキー場だと思う方がよい、対応する店員も英語なので日本語との遭遇率は人より低い)レストランに入った。
件のビールは850円(グラス、330㎖)!、志賀高原では450円だった「志賀高原ビール」が900円である!いくら何でも「ボリ過ぎ」だと思うのだ。
初日の29日は、麓の定宿でもマイナス15度ぐらいに冷え込んだが、八方尾根のリフトで行けるトップのリーゼングラートまでいった。
ちゃんと「立ち入り禁止」の手前で撮影していることに注目せよ。
整地派は、いいお客なのだ。
ここからノンストップで、リーゼンスラロームコースを一番下の名木山まで下る。所要時間は15~20分ぐらいだろうか。
この日も次の日(牡丹雪が多量に降った)も「八方サーキット」を2周はしたので、45㎞/日ぐらい滑ったのではないか。
2日目にはちゃんとヘルメットの安全性を、兎平(有名なコブ斜面ではなく整地してある方)の中ばで左側頭前部から転倒して確かめてきた。
雪と霧で雪面が見づらく、左足下に小さなギャップがあると思いながら右に乗り移ろうとしたら、右足が空中にあって前方へ吹っ飛んだわけだ(簡単にいうと左足片足ジャンプした)。
頭部は完全に守られ、髪の毛1本も抜けることはなかった。アッラーの次ぎにヘルメットは偉大である。
そうだ!
オレは、新しいものが好きだ。
幟旗に「長野県地ビール第1号;南信州ビール」とあったのに引かれて、咲花高速クワッドリフトを降りたところにある、日本人との遭遇率が限りなく低い(八方はほぼオーストラリアのスキー場だと思う方がよい、対応する店員も英語なので日本語との遭遇率は人より低い)レストランに入った。
件のビールは850円(グラス、330㎖)!、志賀高原では450円だった「志賀高原ビール」が900円である!いくら何でも「ボリ過ぎ」だと思うのだ。
マンガ「聖☆おにいさん」に見る日本のイスラムの位置 ― 2015年01月11日 22:22
日本の表現界におけるイスラム教はいかほどのものかを考えるのに格好の題材が、中村光「聖☆おにいさん」というマンガである。
天界の住人であるイエスキリストと、ブッダ釈迦牟尼が20世紀末の忙しさをなんとか乗り切って地上で休暇を過ごす、休暇先はなんと東京都立川市の二階建てのぼろアパートの六畳一間をシェア。
設定からしてシュールだが、なかなか聖書と仏典を相当読み込んでパロディに仕立てている。
このマンガを楽しみたいがゆえに私は聖書を買ったほどだ。
ブッダが町のいたずらっ子に眉間の白毫を指で突かれて痛がったり、イエスはクリスマスが自分の誕生日だということをちっともわかっていなくて他人事のお祭り気分でいたり、マリア様が子離れできないダメママだったり、天使たちも仏弟子も使徒達も相当ぶっ飛んでいるが、セリフに引用される出来事は聖書や仏典に忠実なのでそのギャップが実に面白い。
ところが、不思議なことにこの「天界の住人」はわんさと出る、イエスの父つまり「創造主」も登場するこのマンガでは、イスラム教の「イ」の字も、ムハンマドの「ム」の字も、まったく気配すら出てこない。イエスの父である「創造主(=ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の唯一神)」も、これらにはまったく言及がない。
「さすが!細やかな気遣いのできる日本人」とすべきだろうか?
日本にはイスラム教の位置づけが薄すぎてお話(ネタ)にならないのか?
下手に描くと怖いから描かない、日本人得意の「自粛」なのか?
先日のフランステロで標的になった風刺新聞社の掲載マンガとのあまりの違いに、かえって日本におけるイスラム教や、それ以前に一神教の「神」との真正面からの対峙がないことをうかがわせはしないだろうか。
確かに日本は「八百万の神」なので、とても一人に絞ることができないと言えばそれまでだが、一方には、浄土宗や浄土真宗のように、熱烈な念仏(阿弥陀仏の名号を唱える)という一神教とぱっと見よく似た、アジアのいわゆる南伝仏教からすれば驚天動地の信仰形式が存在する(戦国時代日本に来た宣教師達が「すでにキリスト教徒が広まっている」と勘違いしたほど)。洗礼を受けたキリスト教徒もカトリック、プロテスタントを通じて多い。
「聖☆おにいさん」にイスラム関係の記述がないのは、世界「標準」からいえば異常であるとも言えるのだ。
このマンガ自体は、以上のような面倒なことは一切考えずに読んで面白い、仏典と聖書の知識がある人には抱腹絶倒ものなのでお勧めなのだが、それだけではない、何か「ひやり」と冷たいものを感じさせてしまう昨今の世界は、たぶん解脱や涅槃には遠く、慈悲深くあまねくおわす神による幸福からも遠いのだろう。
天界の住人であるイエスキリストと、ブッダ釈迦牟尼が20世紀末の忙しさをなんとか乗り切って地上で休暇を過ごす、休暇先はなんと東京都立川市の二階建てのぼろアパートの六畳一間をシェア。
設定からしてシュールだが、なかなか聖書と仏典を相当読み込んでパロディに仕立てている。
このマンガを楽しみたいがゆえに私は聖書を買ったほどだ。
ブッダが町のいたずらっ子に眉間の白毫を指で突かれて痛がったり、イエスはクリスマスが自分の誕生日だということをちっともわかっていなくて他人事のお祭り気分でいたり、マリア様が子離れできないダメママだったり、天使たちも仏弟子も使徒達も相当ぶっ飛んでいるが、セリフに引用される出来事は聖書や仏典に忠実なのでそのギャップが実に面白い。
ところが、不思議なことにこの「天界の住人」はわんさと出る、イエスの父つまり「創造主」も登場するこのマンガでは、イスラム教の「イ」の字も、ムハンマドの「ム」の字も、まったく気配すら出てこない。イエスの父である「創造主(=ユダヤ教・キリスト教・イスラム教共通の唯一神)」も、これらにはまったく言及がない。
「さすが!細やかな気遣いのできる日本人」とすべきだろうか?
日本にはイスラム教の位置づけが薄すぎてお話(ネタ)にならないのか?
下手に描くと怖いから描かない、日本人得意の「自粛」なのか?
先日のフランステロで標的になった風刺新聞社の掲載マンガとのあまりの違いに、かえって日本におけるイスラム教や、それ以前に一神教の「神」との真正面からの対峙がないことをうかがわせはしないだろうか。
確かに日本は「八百万の神」なので、とても一人に絞ることができないと言えばそれまでだが、一方には、浄土宗や浄土真宗のように、熱烈な念仏(阿弥陀仏の名号を唱える)という一神教とぱっと見よく似た、アジアのいわゆる南伝仏教からすれば驚天動地の信仰形式が存在する(戦国時代日本に来た宣教師達が「すでにキリスト教徒が広まっている」と勘違いしたほど)。洗礼を受けたキリスト教徒もカトリック、プロテスタントを通じて多い。
「聖☆おにいさん」にイスラム関係の記述がないのは、世界「標準」からいえば異常であるとも言えるのだ。
このマンガ自体は、以上のような面倒なことは一切考えずに読んで面白い、仏典と聖書の知識がある人には抱腹絶倒ものなのでお勧めなのだが、それだけではない、何か「ひやり」と冷たいものを感じさせてしまう昨今の世界は、たぶん解脱や涅槃には遠く、慈悲深くあまねくおわす神による幸福からも遠いのだろう。
ポアンカレ予想という本 ― 2014年12月25日 21:15
今年は、読書が楽しい年だった。
NHK木曜時代劇「銀二貫」がよかったものだから、原作を読み、感動した勢いのままに作者高田都の代表作「みおつくし料理帖」を読み尽くした。
暮れ近くなって、発売日を間違えたため手に入らなかったコミック単行本の代わりに買った「ポアンカレ予想」には、塩野七生「ローマ人の物語」で古代世界への見方が根底から変わったのと同じくらい、幾何学という数学分野のユークリッド以来2300年の歴史を変えた位相幾何学における「数学的発想・思考力」のすばらしさに感動した。
位相幾何学とは、がちがちの文化系教養しかない自分にとっては、空間に浮かぶさまざまな形や変形したらどうなるかを扱う「どうでもいい」分野だった。ユークリッド幾何学の発展形ぐらいの認識しかなかった。
ところが位相幾何学、いや非ユークリッド幾何学の創始者ドイツ人のリーマンは次のような定義を行った。
1.物理的空間とは区別される数学的空間について定義をし、その定義に厳密に従う数学を構築する。
2.直線を、実数が連続する数直線とする。直線上の1点で交わる直線を想定し、交点を0とし方向によってプラスとマイナスの符号を与える。
3.空間はこれらの数直線上の実数を使って与えられる座標にある点の集合とする。よって2本の直線では二次元の空間が、3本では3次元、そして拡張すれば無限次元に至るまでの空間(多様体)を記述できる。
4.これらにより「曲がった」空間を定義できる。どのくらい曲がっているかは、空間に描かれた三角形の内角の和が180度より大きければ「正」小さければ「負」とする。
・・・他にもあるが省略する・・・
幾何学といわれて「紙と定規とコンパス」の学問だと思っていたのが、代数によって記述可能になったという革命である。
アインシュタインの一般相対性理論は、リーマンの数学なしには生まれなかった。
質量のあるところには重力があり、重力とは空間の曲がりであるという記述を考えてもみよ。
40歳で病没したリーマンと同じ発想に立ち、それらを精密に発展させ完成させたのがフランスの19~20世紀の知の巨人ポアンカレである。
そして彼が証明できなかった位相幾何学的予想「ポアンカレ予想」は、100年間数学者を翻弄したのである。
新潮文庫「ポアンカレ予想」という書物は、この数学者たちの努力と苦悩を描いて読者を引きつける。
位相幾何学の発想(多様体同士を貼り合わせる、切断するとか)や用語「多様体」「同相」「写像」は載せられているが、数学記号や数式は出てこない。位相幾何学の諸概念も面倒なら理解できなくてもよい。ちょうど「一般相対性理論」や「量子力学」が数式なしに読んでもかまわないのと同じと思えばよい。
ポアンカレ予想は、確か昨年のNHKスペシャルで取り上げられてご存じの方も多いだろうが、21世紀にはいりグレゴリー・ペレルマンというロシアの数学者によって、位相幾何学的手法ではなく「偏微分方程式」を用いる解析的手法で証明された。ペレルマンは、ポアンカレ予想の証明にかけられた賞金も「フィールズ賞(数学界のノーベル賞といわれる)」も拒否した。
と最後の方に簡単に記述されるだけである。
適当な想像力、いや具体的な事象を思い浮かべ、真っ昼間から「妄想」できる人なら、一読することを強くお勧めする。
ちなみに、引き続き数学教養書を拾ってみようと思う。たぶん次は「素数の音楽」新潮文庫になるだろう。
2015スキーシーズンはじまり ― 2014年12月24日 14:31
「暖冬」だというのに12月から寒波が来て大雪ではないかと、気象に関する自分の経験知識より気象庁や気象予報士の権威に頼る人々には不思議かも知れないが、経験上、早く始まった冬は、早く終わって、結局「真」冬の継続期間が短いというのが「暖冬」だと思っている。
「ああ、今年は3月にはべちゃべちゃ春スキーになってシーズンは終わるなあ」と思っていた。
しかし、早く真冬になったのなら、スキーもそれに合わせるのがよいだけだと気づいた。
12月20日土曜日から、23日(祝)まで行けば、行きと帰りは高速道路が3割安くなってお得である。一人スキーは宿代が高いし、交通費ももろ自分持ちなので安くしたい。
「そうだ、志賀高原へ行こう」となった。
往き道はずっと冷たい雨が、1400メートル以上の標高にある志賀高原でも、サンバレーまでは雨、丸池以後、定宿のある奥志賀までは雪だったが、夕ご飯のころは奥志賀でも、スキー場で一番聞きたくない屋根からの雨だれの音。オーナーが気の毒がってくれたが、「いいんです、今日は滑らないからどうでも、明日が晴れたらそれでいい」。全てのスキーヤーは我が儘である定理はもちろん当てはまる。
滑走初日、日曜は薄曇りで、圧雪したての一部凍って硬いバーンを思う存分スピードを出す。
奥志賀~焼額のほぼ全てのコースを順番に滑る「サーキット」である。
不満といえば、ときおり特に右スキーから聞こえるガリガリ横滑りをする音、カービングでそいつは下手な証拠だ。
2日目、月曜は「真冬」並み寒波で少なくとも新潟県は吹雪予報だが、3枚目の写真の通り、薄日が差したまに小雪が降る程度の好コンディション。15㎝ほどの新雪も乗っている。「ゲレンデ晴れ男伝説」の復活であろう。
昼は、志賀高原ビール(玉村本店;湯田中)を目指して一ノ瀬ダイヤモンドへまわる。
両膝にサポーターをしていてよかった。
初滑りは上々だったが、帰路、飯田山本インターと中津川インター間が事故通行止めだ。
昼食と状況を確かめるために立ち寄った梓川SAで、恵那山トンネルを出た神坂PA先で、11時30分頃車7台が関連する事故が起き積み荷が散乱して復旧のめどは立たないとのこと。
通行止め区間へは75分、そこで降りて迂回するようにとSAのコンシェルジュは伝えていた。しかしその道は狭く当然混雑する。では手前の駒ヶ岳SAに駐車し通行止めが解除されるのを待つ、これはいつまでかかるかわからないリスクがある。
そこで、国道19号線へ出て中津川へ出ることにした。
塩尻インターから国道へ出るか、伊北もしくは伊那インターから出て、木曽駒山地を貫く権兵衛トンネルをはじめとするトンネル群を経て19号線に至るかの選択を迫られる。
中津川インターですでに復旧した中央道に出たのが4時過ぎ、途中渋滞はなかった。3時間も一般道を走った結果、安くなった高速道路料金はわずか800円ほど。
何が正しい選択なのかは難しい問題だ。しかし一つ確かなことがある。
高速道路のような運転が容易な道路で、どうしたら事故を起こせるのか?
バカだから。
反論のある方はお寄せいただきたい。
「ああ、今年は3月にはべちゃべちゃ春スキーになってシーズンは終わるなあ」と思っていた。
しかし、早く真冬になったのなら、スキーもそれに合わせるのがよいだけだと気づいた。
12月20日土曜日から、23日(祝)まで行けば、行きと帰りは高速道路が3割安くなってお得である。一人スキーは宿代が高いし、交通費ももろ自分持ちなので安くしたい。
「そうだ、志賀高原へ行こう」となった。
往き道はずっと冷たい雨が、1400メートル以上の標高にある志賀高原でも、サンバレーまでは雨、丸池以後、定宿のある奥志賀までは雪だったが、夕ご飯のころは奥志賀でも、スキー場で一番聞きたくない屋根からの雨だれの音。オーナーが気の毒がってくれたが、「いいんです、今日は滑らないからどうでも、明日が晴れたらそれでいい」。全てのスキーヤーは我が儘である定理はもちろん当てはまる。
滑走初日、日曜は薄曇りで、圧雪したての一部凍って硬いバーンを思う存分スピードを出す。
奥志賀~焼額のほぼ全てのコースを順番に滑る「サーキット」である。
不満といえば、ときおり特に右スキーから聞こえるガリガリ横滑りをする音、カービングでそいつは下手な証拠だ。
2日目、月曜は「真冬」並み寒波で少なくとも新潟県は吹雪予報だが、3枚目の写真の通り、薄日が差したまに小雪が降る程度の好コンディション。15㎝ほどの新雪も乗っている。「ゲレンデ晴れ男伝説」の復活であろう。
昼は、志賀高原ビール(玉村本店;湯田中)を目指して一ノ瀬ダイヤモンドへまわる。
両膝にサポーターをしていてよかった。
初滑りは上々だったが、帰路、飯田山本インターと中津川インター間が事故通行止めだ。
昼食と状況を確かめるために立ち寄った梓川SAで、恵那山トンネルを出た神坂PA先で、11時30分頃車7台が関連する事故が起き積み荷が散乱して復旧のめどは立たないとのこと。
通行止め区間へは75分、そこで降りて迂回するようにとSAのコンシェルジュは伝えていた。しかしその道は狭く当然混雑する。では手前の駒ヶ岳SAに駐車し通行止めが解除されるのを待つ、これはいつまでかかるかわからないリスクがある。
そこで、国道19号線へ出て中津川へ出ることにした。
塩尻インターから国道へ出るか、伊北もしくは伊那インターから出て、木曽駒山地を貫く権兵衛トンネルをはじめとするトンネル群を経て19号線に至るかの選択を迫られる。
中津川インターですでに復旧した中央道に出たのが4時過ぎ、途中渋滞はなかった。3時間も一般道を走った結果、安くなった高速道路料金はわずか800円ほど。
何が正しい選択なのかは難しい問題だ。しかし一つ確かなことがある。
高速道路のような運転が容易な道路で、どうしたら事故を起こせるのか?
バカだから。
反論のある方はお寄せいただきたい。
子供は食べちゃダメ=カニ ― 2014年12月02日 13:34
若狭常神半島でカニをたらふく食ってきた。
今年開通した若狭道に北陸道敦賀ジャンクションより分け入りがかない、30分ほど時間短縮になる。
思えば、常神半島先端の民宿「小西屋別館」に通い始めたのは、20世紀末のころであった。世紀をまたいで通い続けた我らのしつこさと、小西屋のカニづくし料理はなかなかのものと讃えねばならない。
行きはいつも昼飯を何にするかで迷うのだが、天橋立がある宮津まで行くのを、名神高速、北陸道で二箇所事故渋滞に引っかかったので断念し、手前の小浜で寿司、帰りは三方五湖周辺で海産物と梅製品、越前大野で名物「いもきんつば」や「花垣」という銘柄の日本酒を買う。
食べ物にはこのように強く執着するが、晴れ渡った敦賀湾を背景に岬の紅葉があるという絶景であっても、まったく関心を示さないメンバーで行く、ものすごく割り切った旅行である。
カニづくしのメイン、カニすきは、雄のズワイガニ一人一匹丸ごとである。胴体はゆであげに15分ぐらいかかるのでまず胴体からいれなければならない。熱々のミソに足の身をほぐして和えながら食うのが常道である。
焼きガニ、カニ刺し、ヒラメとイシダイ、アオリイカの活け作りがでる。少し小ぶりな茹でがにもつくが、食べきれないので翌朝土産品としてもらう。朝飯は真鯛一匹を使った鯛飯である。
2日目の飯のため自分土産に、勢子ガニ(ズワイガニの雌で、資源保護のため1月には禁漁となる)2杯を買ってきた。
そいつに宿の手土産小ぶりのオスのミソと肩の身を加え、薄い土佐酢をかけて和え混ぜて丼飯にのせる「開高丼」(芥川賞作家で後年冒険釣り師としても有名になる、亡き開高健が越前海岸の宿で作らせたのでこの名がある)を作ってみた。
メスの「外子」を丁寧にほぐしたり細い足の身を出すのが面倒だが、オスにはない赤い「内子」がご飯に合い、実に美味い。
処理に30分はかかるが、美味いもののためには手間を惜しまない人々は是非、雌のズワイガニが手に入ったら試して欲しい。
今年開通した若狭道に北陸道敦賀ジャンクションより分け入りがかない、30分ほど時間短縮になる。
思えば、常神半島先端の民宿「小西屋別館」に通い始めたのは、20世紀末のころであった。世紀をまたいで通い続けた我らのしつこさと、小西屋のカニづくし料理はなかなかのものと讃えねばならない。
行きはいつも昼飯を何にするかで迷うのだが、天橋立がある宮津まで行くのを、名神高速、北陸道で二箇所事故渋滞に引っかかったので断念し、手前の小浜で寿司、帰りは三方五湖周辺で海産物と梅製品、越前大野で名物「いもきんつば」や「花垣」という銘柄の日本酒を買う。
食べ物にはこのように強く執着するが、晴れ渡った敦賀湾を背景に岬の紅葉があるという絶景であっても、まったく関心を示さないメンバーで行く、ものすごく割り切った旅行である。
カニづくしのメイン、カニすきは、雄のズワイガニ一人一匹丸ごとである。胴体はゆであげに15分ぐらいかかるのでまず胴体からいれなければならない。熱々のミソに足の身をほぐして和えながら食うのが常道である。
焼きガニ、カニ刺し、ヒラメとイシダイ、アオリイカの活け作りがでる。少し小ぶりな茹でがにもつくが、食べきれないので翌朝土産品としてもらう。朝飯は真鯛一匹を使った鯛飯である。
2日目の飯のため自分土産に、勢子ガニ(ズワイガニの雌で、資源保護のため1月には禁漁となる)2杯を買ってきた。
そいつに宿の手土産小ぶりのオスのミソと肩の身を加え、薄い土佐酢をかけて和え混ぜて丼飯にのせる「開高丼」(芥川賞作家で後年冒険釣り師としても有名になる、亡き開高健が越前海岸の宿で作らせたのでこの名がある)を作ってみた。
メスの「外子」を丁寧にほぐしたり細い足の身を出すのが面倒だが、オスにはない赤い「内子」がご飯に合い、実に美味い。
処理に30分はかかるが、美味いもののためには手間を惜しまない人々は是非、雌のズワイガニが手に入ったら試して欲しい。
ドラマMOZUで引用された「オメラスの秘密」について ― 2014年11月13日 22:28
TBSとWOW・WOW共同制作のドラマ「MOZU」で、元巨大警備会社の社長である「東」という人物が、盛んに引用する「オメラス」という物語がある。
これはアメリカの女流SF作家アーシュラ・K・ルグィンの短編小説「オメラスから歩み去る人々」のことである。
美麗で壮大な門を持つ、オメラスにはまったく不幸、その影すらない。ただひとつの例外を除いては。
誰もそのことを知ってはいるが、あえて意識にのぼらせない秘密がオメラスにはあった。
ある石造りの建物の地下室に、一人の子供が束縛されている。オメラスの不幸はその子供が一人背負っている、オメラスの幸福は、その子供が不幸であることによって保たれているというのだ。
ごく希に、そのことに気付き、自分の幸福にかげりを認める人が現れる。しかし同時に、現実はどうしても変えられないことも知る。
一人の不幸な子供を「解放」することによって、オメラス全体の「幸福」を覆すことにはどうしても及ばない。
そこで、ジレンマに陥った人は、オメラスの壮大美麗な門から出て行き、戻っては来ない、と言う結末である。
これは人間の「幸福」に対する冷酷なジレンマだ。
貧困による格差、差別、少数民族弾圧などにあてはめることもできる。
しかし「MOZU」で引用された「オメラス」もしくは「オメラスの秘密」はまったく似て非なるものと言わざるを得ない。
あれなら単に「秘密」でいいのではないのか。国家間と国家組織内の、取引可能な。
本家「オメラス」の秘密には、オメラスに住む全ての人の幸福(その巨大な影としての不幸も)、つまり「人類世界のすべて」がかかっていたのに比べ、あまりに小さく単純で命をかける値打ちはなかった。
ルグインの名前も作品も知らない人には何でもないことだろうが、mixiのなかにコミュニティーもあるぐらいだから、よく知るファンも日本には多いだろう。ちょっと軽率な引用ではなかったかと思う。
これはアメリカの女流SF作家アーシュラ・K・ルグィンの短編小説「オメラスから歩み去る人々」のことである。
美麗で壮大な門を持つ、オメラスにはまったく不幸、その影すらない。ただひとつの例外を除いては。
誰もそのことを知ってはいるが、あえて意識にのぼらせない秘密がオメラスにはあった。
ある石造りの建物の地下室に、一人の子供が束縛されている。オメラスの不幸はその子供が一人背負っている、オメラスの幸福は、その子供が不幸であることによって保たれているというのだ。
ごく希に、そのことに気付き、自分の幸福にかげりを認める人が現れる。しかし同時に、現実はどうしても変えられないことも知る。
一人の不幸な子供を「解放」することによって、オメラス全体の「幸福」を覆すことにはどうしても及ばない。
そこで、ジレンマに陥った人は、オメラスの壮大美麗な門から出て行き、戻っては来ない、と言う結末である。
これは人間の「幸福」に対する冷酷なジレンマだ。
貧困による格差、差別、少数民族弾圧などにあてはめることもできる。
しかし「MOZU」で引用された「オメラス」もしくは「オメラスの秘密」はまったく似て非なるものと言わざるを得ない。
あれなら単に「秘密」でいいのではないのか。国家間と国家組織内の、取引可能な。
本家「オメラス」の秘密には、オメラスに住む全ての人の幸福(その巨大な影としての不幸も)、つまり「人類世界のすべて」がかかっていたのに比べ、あまりに小さく単純で命をかける値打ちはなかった。
ルグインの名前も作品も知らない人には何でもないことだろうが、mixiのなかにコミュニティーもあるぐらいだから、よく知るファンも日本には多いだろう。ちょっと軽率な引用ではなかったかと思う。
ノーベル平和賞への疑問 ― 2014年10月10日 21:01
ノーベル平和賞には本当にがっかりさせられっぱなしだ。
今年は17歳の少女とインドの反児童労働活動家だ。どちらも活動途上である。
マララさんの方は史上最年少と騒がれているが、彼女は何ら実績を残したわけではなく、これから先の長い人生の中で何をするかは全く不確定だ。
結婚をすれば、イスラム教徒の女性であるから、夫によって全く今とは違う人生を送り、現在の信念に反した行動をするかもしれない。
自然科学系の3賞はは、必ず確定した実績に対して与えられる。どんなに優れた理論を打ち立てたとしても、実験や観測によって実証されなければ決してノーベル賞は授与されない。
それに対して、経済賞、文学賞、平和賞は「実績がなくとも」「実証されなくとも」授与される。
オバマ大統領、中国の反政府人権活動家が何か実績を上げただろうか、つまり言ったこと=理論が実証されただろうか?
私は「いいえ」だと思う。
だからこそ実証なき理論が受賞するようなもので、絶対におかしい。
マララさんには悪いが、彼女は「声を上げた」「その声がネットで拡散された」「過激派に銃撃されたが生き延びた」これが実績、あとはそれを利用し彼女を担いだ取り巻きの巧みな演出とみるべきだろう。彼女は「理論」だ。
実績=実証なき理論への受賞は、選考委員会の「意図」を勘ぐられても仕方がない。
今年は17歳の少女とインドの反児童労働活動家だ。どちらも活動途上である。
マララさんの方は史上最年少と騒がれているが、彼女は何ら実績を残したわけではなく、これから先の長い人生の中で何をするかは全く不確定だ。
結婚をすれば、イスラム教徒の女性であるから、夫によって全く今とは違う人生を送り、現在の信念に反した行動をするかもしれない。
自然科学系の3賞はは、必ず確定した実績に対して与えられる。どんなに優れた理論を打ち立てたとしても、実験や観測によって実証されなければ決してノーベル賞は授与されない。
それに対して、経済賞、文学賞、平和賞は「実績がなくとも」「実証されなくとも」授与される。
オバマ大統領、中国の反政府人権活動家が何か実績を上げただろうか、つまり言ったこと=理論が実証されただろうか?
私は「いいえ」だと思う。
だからこそ実証なき理論が受賞するようなもので、絶対におかしい。
マララさんには悪いが、彼女は「声を上げた」「その声がネットで拡散された」「過激派に銃撃されたが生き延びた」これが実績、あとはそれを利用し彼女を担いだ取り巻きの巧みな演出とみるべきだろう。彼女は「理論」だ。
実績=実証なき理論への受賞は、選考委員会の「意図」を勘ぐられても仕方がない。
責任者出てこい!が好き ― 2014年10月03日 19:42
50才以上の大阪人なら「ぼやき漫才」といえば思い出すだろう「責任者出てこい!」
現代日本人はこの言葉がいまだに大好きである。
巨大地震と津波で2万人が死んだ、これほど大きな地殻変動なら予兆がわかったはずだし津波の規模もちゃんと伝えなかった、避難場所が津波には不向きだったので、
「責任者出てこい!」
山ぎわの扇状地に造成された住宅地が、局地的記録破りな大雨よる土砂災害で大勢死んだ、なぜ避難勧告を出さなかったんだ、
「責任者出てこい!」
有史以来の噴火記録がなく、やっと40年前に噴火し細々と経過観察をしていた御嶽山が水蒸気爆発(3000メートルを超える火山では小規模な)し登山者の大勢が死んだ、爆発前に火山税微動が増減を繰り返したのになぜ警報レベルを引き上げなかったんだ、
「責任者出てこい!」
みんな、他人の責任は、決して自分にお鉢が回ってこないことがわかっているから、「責任者出てこい!」と安心して叫べる。しかも周りの人々も同じ立場なのでてんでに好きなように「責任者出てこい!」と言い合って憚らない。
しかし叫んでいるのは皆素人評論家で、当事者でも責任者でもないので、まあ、野球でいえば外野席に陣取った観客のヤジというところだろう。
そこを自覚していればいいのだが、ネットの世界に発信できるようになってからは、「責任者出てこい!」は「贔屓チームの勝ち鬨」「正義の雄叫び」と同じように脳内にドーパミン・エンドルフィンの大量放出を伴い、一種の酩酊状態を作るようだ。
「責任者出てこい!」は、はじめに示したように30年以上前の「ぼやき漫才」のギャグネタであった。すなわちみんなで大笑いしておしまい、また次の新たなネタで「責任者出てこい!~大笑い」と繰り返すだけである。
笑った客は誰一人、本当は自分が笑われているのだと思わない。そして自らは何も手を打たない、考えない。
「責任者出てこい!」は、自ら言ったり、他人のを聞いたり、みんなで賛同したりするとすっきりした「カタルシス」を味わえるが、自分自身の安全が担保されるわけでもなく、何かを学習するわけでもない。
自分なら何ができるかをトイレに座って考える方が、はるかに有益で、よい。
よしやそこで感極まって「責任者出てこい!」と叫んでも周囲には聞こえないから大丈夫である。叫びとともにたまっていた便が出たなら幸いでもある。
そうだ、本当に出てきた「責任者」もたいてい「クソ」であるので、出てきた責任者=大便と断言してもいいかも知れない。
災害時はまず自分の安全を図り、余裕があれば他人を助ける、その時の備えを、物的にも心の中にも築かなければ、自分の遺影の前で見知らぬ人が「責任者出てこい!」と言うのを、にがにがしくあの世から眺めることになるだけである。
臨死体験=脳の錯覚に賛成する ― 2014年09月15日 11:27
脳とは人間に錯覚によって世界を見せる装置だから、臨死体験は脳の最後の錯覚だろう。
3次元世界にいる人間は、3次元立体そのものを見ることはできない。
そんなことは無いというひとは、なぜ物体の「裏」が見えないのかを考えてみることだ。見えない裏側が「あるかように認識できる」というのは、脳がそう錯覚させているからだ。
まだわからない人は、平面(2次元)の生き物を想定してみよう。
2次元(平面)生物に見えるのは「線」。図形を認識するときは、見えている「折れ曲がった線」は見えても図形の「奥にある線」を見ることは決してできない。
「奥にある線」を含めた三角形などの図形は、平面にひとつ「高さ」という次元を加えた3次元生物が「上から」俯瞰しないと見えない。
3次元世界にいる我々も同じなのだ、「線」が「平面」に変わるだけ。
左右の目の網膜に映った、平面画像のわずかなズレを脳内で処理して「錯覚」を作り出しているから、立体「的」に見えるにすぎない。立体の「奥にある平面」は認識できると錯覚させられているだけである。
電磁波である可視光に「色」が見えるのももちろん錯覚で、色認識が人間と他の生物で違うことでもわかる。
このようなわけから「脳とは錯覚を作る装置である」こと、それによってこの世界を生き抜く生き物の巧妙な仕組みであると断言できる。
「脳が働いていない」というのも信じてはならない。
今のところ脳の活動は「脳波」で測定されているだけで、脳波が測定できないからと言って、脳が活動していないとはいいきれない。
考えても見よ、ほんの20年ほど前までは「心肺停止の状態」という報道表現はなく、たんに「死亡」だった。
蘇生技術の発展によって、息が止まり鼓動がなくても「死んだといわないことにしておこう」というのと同じく「脳波が測定できない」というのは将来覆る可能性大だ。
人間の測定技術によって、200年前には存在しなかった電磁波も、ウイルスも、素粒子も存在することになったのである。
ブッダとなったお釈迦様は、「死後魂は存在するか」という弟子の問いには回答を拒否した。
それは「存在する」と言っても「存在しない」と言っても確かめようもなく、無常であり苦であるこの世に「ちゃんと生きる=苦を滅する」ことには、まったく意味が無いからだ。
死んだあとに「何かの存在=心?」が残ると思えば、生きてる内にやるべきことがおろそかになるではないか。
それこそブッダお釈迦様が、苦行と放逸とともに放棄した生き方であろう。
「心とは何か」を考えるというのは、人間の「不治の病」だ。
心もまた、時と状態により有り様を変える「変異することをその性とする」無常の存在で、仮構されたものだとブッダは繰り返しといている。
人間の観念の内にある「形而上学」の問い、正解のない、あるいは正解だと思った答えがたちまち変移してしまう問いに人生を費やすことは、「ちゃんと生きる」ことには関係が無い。
変移によってもたらされる「生きる」というストレスに圧倒され、わけもわからず振り回されることが人間の「苦」だと、ブッダであるお釈迦様は説かれ、その「苦」を滅する努力をすることが人間の究極の知恵であり目指すべきものだと、少なくとも仏教徒は思いをいたすべきだろう。
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0914/
3次元世界にいる人間は、3次元立体そのものを見ることはできない。
そんなことは無いというひとは、なぜ物体の「裏」が見えないのかを考えてみることだ。見えない裏側が「あるかように認識できる」というのは、脳がそう錯覚させているからだ。
まだわからない人は、平面(2次元)の生き物を想定してみよう。
2次元(平面)生物に見えるのは「線」。図形を認識するときは、見えている「折れ曲がった線」は見えても図形の「奥にある線」を見ることは決してできない。
「奥にある線」を含めた三角形などの図形は、平面にひとつ「高さ」という次元を加えた3次元生物が「上から」俯瞰しないと見えない。
3次元世界にいる我々も同じなのだ、「線」が「平面」に変わるだけ。
左右の目の網膜に映った、平面画像のわずかなズレを脳内で処理して「錯覚」を作り出しているから、立体「的」に見えるにすぎない。立体の「奥にある平面」は認識できると錯覚させられているだけである。
電磁波である可視光に「色」が見えるのももちろん錯覚で、色認識が人間と他の生物で違うことでもわかる。
このようなわけから「脳とは錯覚を作る装置である」こと、それによってこの世界を生き抜く生き物の巧妙な仕組みであると断言できる。
「脳が働いていない」というのも信じてはならない。
今のところ脳の活動は「脳波」で測定されているだけで、脳波が測定できないからと言って、脳が活動していないとはいいきれない。
考えても見よ、ほんの20年ほど前までは「心肺停止の状態」という報道表現はなく、たんに「死亡」だった。
蘇生技術の発展によって、息が止まり鼓動がなくても「死んだといわないことにしておこう」というのと同じく「脳波が測定できない」というのは将来覆る可能性大だ。
人間の測定技術によって、200年前には存在しなかった電磁波も、ウイルスも、素粒子も存在することになったのである。
ブッダとなったお釈迦様は、「死後魂は存在するか」という弟子の問いには回答を拒否した。
それは「存在する」と言っても「存在しない」と言っても確かめようもなく、無常であり苦であるこの世に「ちゃんと生きる=苦を滅する」ことには、まったく意味が無いからだ。
死んだあとに「何かの存在=心?」が残ると思えば、生きてる内にやるべきことがおろそかになるではないか。
それこそブッダお釈迦様が、苦行と放逸とともに放棄した生き方であろう。
「心とは何か」を考えるというのは、人間の「不治の病」だ。
心もまた、時と状態により有り様を変える「変異することをその性とする」無常の存在で、仮構されたものだとブッダは繰り返しといている。
人間の観念の内にある「形而上学」の問い、正解のない、あるいは正解だと思った答えがたちまち変移してしまう問いに人生を費やすことは、「ちゃんと生きる」ことには関係が無い。
変移によってもたらされる「生きる」というストレスに圧倒され、わけもわからず振り回されることが人間の「苦」だと、ブッダであるお釈迦様は説かれ、その「苦」を滅する努力をすることが人間の究極の知恵であり目指すべきものだと、少なくとも仏教徒は思いをいたすべきだろう。
http://www.nhk.or.jp/special/detail/2014/0914/
みをつくし料理帖を読み終えた ― 2014年09月11日 11:00
8月から読み始めて1ヶ月もかかってしまったが、面白かった。
高田郁作「澪つくし料理帖」(ハルキ文庫)である。
「文化・文政時代」と呼ばれる19世紀初頭、徳川家斉将軍の治世で、長い太平と鎖国により日本独特の「江戸文化」が花開き、ある意味日本人がもっとも日本人らしい時代であったと言える。人情に篤く、義理堅い、つましくはあっても、身の丈より少し背伸び(見栄を張って)をしても「いいもの」を愛でる、そういう江戸っ子気風が定着した背景の中での人情話である。
物語は章ごとに主人公澪の作る料理の名前がついており、その料理を食べに「つるや」に集う江戸庶民や常連客、「つるや」の奉公人一同の様子が細やかに優しい視線で描かれている。
武士の町江戸を舞台にしているが、緊迫の斬り合いもなければ、捕り物も、胸のすく謎解きもない。あくまで町人が主人公の話が続く。
3巻を読んでいる最中に同じような話しの連続で単調になるかとも思ったが、全体を貫く3本の縦糸と、澪自身に、また主要登場人物の身に起こる事件を横糸に配し、最後は縦糸の上に横糸が織り上げられて息をのむ一反の織物に仕上がるみごとな構成力と、緊張感を保つ巧みな物語表現力を兼ね備えた傑作である。
縦糸の1本は、吉原でまぼろしと噂される「あさひ太夫」が、幼なじみの親友「野江」だとの次第を知り、なんとしても自由の身にしたいという強い願い。
もう1本は、息子佐兵衛とともに失なったかつての「天満一兆庵」の再興をご寮さん(ごりょんさんと発音、商家の女将のこと)芳から託されたことによる使命感。
最後の1本は、これは太夫の正体を知る前から、つまり物語の最初から最後までを貫く「芯」と言ってもいいのだが、ひとに喜んでもらえる美味しい料理を作りたいという飽くなき向上心と工夫だ。
三つの強い思いに導かれ、時に翻弄されるる澪の成長と苦悩がしっかりと全体を引っ張っている。
横糸となる登場人物は実に魅力的に描かれている。
つるやの店主「種市」、長屋の隣家大工の伊佐三・おりょうの夫婦、洪水孤児の澪を救った大坂の名料亭天満一兆庵のご寮さんで澪とともに暮らす芳、幕府御殿医の次男だが町医者に徹する永田源斎、謎の浪人風武士小松原、あさひ太夫の専属料理人又次。
作者の巧みなところは、これらの人物が、人情に篤い「江戸っ子(芳と澪は大阪人)」で基本的に「善い人」でありながら、皆「翳り」というか「欠けたもの」を抱えていることだ。これにより人物や引き起こされる事件が重層的により深い緊迫感をもって描かれる。
時代背景も、実際に起きた洪水や大火、遊里吉原の風俗も描かれる。さらに歴史上実在人物も里見八犬伝の曲亭馬琴は清右衛門というわがまま文句言いの戯作者として、その友人辰政は葛飾北斎、いずれも当時名のっていた名前のままで登場する。
3巻で感じた「退屈感」も縦糸による強力な構成力で引っ張られひと月で読み切ることができた。読書量が一番多かったサラリーマン時代なら、寸暇を惜しんで読み、たぶん3週間かからなかったろうと思われる。
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